第二章 凪と陸、そして湊 ~ファーストキス~

 ――湊は、もういない


 荒海凪は唇をギュッと噛みしめた。唇から流れ出た血の味は、自身の経験した痛みと恐怖、悲しみと重なって、彼女の脳の中の海馬を刺激した。過去の記憶が蘇ってくる。

 

 山桐陸がいつから傍にいたのか、凪は思い出すことは出来ない。気が付いた時には、もう一緒にいた。凪にとって、陸がいることが当たり前だった。二人は同じ学年だったが、四月の始めに生まれの陸と、三月終わりに生まれた凪とでは出来る事が大分違った。陸に出来る事が、凪にはなかなか出来なかった。

 一番古い記憶は、お箸の使い方だ。陸はスプーンではなくて、お箸でご飯を食べていた。それが悔しくて、何度も何度もお箸の使い方を練習していたら、陸が指の体操を教えてくれた。親指以外の指を一本一本曲げては伸ばしてゆく運動。陸もお母さんから教わったって言っていた。曲げ伸ばしをスムーズにできるようになった頃、凪はお箸でご飯を食べる事ができるようになっていた。嬉しかったからよく覚えている。

 そんな幼い頃から二人でいつも遊んで、勉強して、ふざけ合っていた。陸は凪にとってお兄ちゃんのような、親友のような存在だった。


 陸はスポーツも出来たけど、頭も良かった。中学生の時の陸の夢は、ゲームクリエーター。C言語とかJAVAとか、凪には?印しか頭に浮かんで来ないようなプログラミングを、独学で勉強していた。だから陸が受験した高校は凪の偏差値より、高い高校だった。凪は同じ高校に行きたかったので、中学三年生はほとんど勉強に明け暮れた。陸も熱心に凪に勉強を教えてくれていた。

「自分の勉強はどうなってん?」と聞くと、「教えるのって、意外に自分の勉強になるんやな。俺、テストでも実力あがってん」と笑っていた。


 三月初旬の寒い朝、怖いよーと泣き叫ぶ凪を引っ張り出してくれたのも陸だった。

「一緒に合格発表、見に行くって約束したやん」と陸は凪の手を引っ張った。

 凪はその手を電車の中でも、高校の門の前でも掲示板の前でも離さずにギュと握っていた。そうしないと、逃げ出してしまいそうだったからだ。

「あった」と陸の小さい声が聞こえた。

 凪は恐る恐る顔を上げた。心臓が飛び出るかと思うぐらい、ドキドキと脈を打っていた。


 ――陸が合格するのは当たり前やん。でも私は?

 

 と受験の日の事が頭を過る。出来なかったという印象だった。


 2、5、7、6、5.凪はそう心の中で唱えながら、番号を探す。25761。

25762。2576……5。

「あった! ねえねえ、夢とちがうよね。あるやんね?」

 陸は凪の受験番号を覗き込んで言った。

「夢や。最高の夢や。よう頑張ったな、凪」と陸は凪の頭をポンと叩いた。

 凪は、なんやその、上から目線とも思ったが、嬉しさで思わず陸に抱き着いてしまった。陸は一瞬戸惑ったように、身体を離そうとしたが、次の瞬間、陸は思い返したように、腕の中にしっかりと凪を抱き留めた。その抱擁に凪は子供の時のそれとは違う物を感じ取った。

 心臓が違う意味でドキドキして、「陸、苦しい」と言うと、「ごめん」と彼は身体を離した。

 そして何となく気まずくなって、その日はそのまま二人無言で帰路へとついた。


 陸からチャットが入ったのは、それから二日後の事だった。

“うち、来ん? 一緒に、ゲームやんね? バーチャルのスゲーやつ。母ちゃんに買うてもらった。高校に合格した祝いや”

“怖いやつとちがうやろうな?”と返すと、“いや、冒険ものや。画像がめっちゃ綺麗なんや”とすぐに返信が来た。

 凪が山桐家の呼び鈴を押すと、陸のお母さんの麻美おばちゃんが顔を出した。

「凪ちゃん。おめでとう! 陸から聞いたわぁ。今日はうちでご飯食べて行きなさいね。ごちそう作るわ。凪ちゃんのお父さんも、仕事終わったらケーキ買うて来るて」

 凪は麻美おばちゃんが家にいた事に、安心したのを覚えている。これも凪にとっては、新しい感覚だった。今までは、二人きりでお互いの家で遊んでいても、それが当たり前だった。その関係が何となく変わってしまうのを感じて、凪の胸は複雑に揺れた。

 

 陸の部屋に入ると、彼は妙に大きなゴーグルをして、手にコントローラーを持ってそれを振っていた。テレビゲームに慣れている凪から見ると、映像が目の前にないだけ陸が間抜けに見えた。いくら、陸と呼んでも振り返らないので、肩をポンとたたくと陸はゴーグルをしたまま振り返った。ますます、間抜けに見える。

「バーチャルのすっげー奴ってそれのことなん?」と聞くと、陸はゴーグルを外した。

「せや。これ、前から欲しかってん。友達と出来るように、ゴーグル二つ買うてもろた。付けてみるか?」

「うん」とゴーグルを付けるとその向こうには、壮大な山脈と荒野が広がっていて、一瞬で凪はその世界に放り込まれた。

 目の前になんだか妙にカッコイイ、銀色の長髪をした青年が立っている。剣と弓を持っていて、白と黒の細身の戦闘スーツが良く似合っている。漫画の転生物でよく見る、クールな戦士だ。これが陸のアバターだと気付いて、凪は笑いだした。

「なんなん?」

「盛りすぎや!」

「凪もアバター作ってみ。教えたろ」

 凪が金髪で長いポニーテール、すらりとしたスタイルのアバターを作ると、今度は陸が噴き出した。

「なんなん?」

「凪こそ美化し過ぎや」

 二人で、大きなドラゴンと闘って、それを仲間にした。その背に乗って空を飛ぶ。

“すごい! ほんまに空を飛んでるみたいや” とゲームチャットに打ち込むと “そうやろ。俺、こういうゲーム作りたいんや”とアバターの陸がこちらを向いた。

 アバターの凪が、陸の方を向くと急に彼が近寄って来た。自然に唇が触れる位置まで来ると、二人は……すり抜けた。当たり前だ。VRのゲームのほとんどは、今のところ物理的にぶつからないように出来ている。

「なあ、凪」と陸がゴーグルを外したので、アバターは動かなくなった。


 凪もゴーグルを外す。視線が交差してぶつかった。心臓が高鳴り、自然に唇同士が触れた。最初はオドオドと、小鳥同士がくちばしを重ね合うように軽く。陸の息遣いが伝わって来る。その唇からは、ほんのりミントの味がした。何度も唇が触れ合う度に、凪のお腹の中にキュンとした、不思議な感覚が溜まってゆく。陸の手が凪の頬に触れると、もう止まらなかった。軽いキスから、お互いをじっくり味わうように唇と唇を重ね合わせてゆく。

「凪の唇、マシュマロみたいや」と陸が自分のおでこを凪のおでこに重ねる。

 それからまた、夢中でキスをした。唇が溶け合って一つになる。そんな風に凪は感じていた。凪は十四才、陸は十五才だった。


「あんたたち! いつからそういう関係なん?」

 気付くと、陸の母親が仁王立ちで立っていた。陸と凪は慌てて身体を離した。

「ええと。つい数分前から」と陸がしどろもどろで答える。

「嘘やないな」と凪を睨む。

「陸の……言う通りです」と凪は顔がカーと熱くなるのを感じた。

「そう。分かった。陸、ちょっと、こっちへ来なさい」

 麻美おばちゃんが陸の耳を引っ張って、ダイニングキッチンの方へ消えた。凪が気まずい思いをしながら、待っていると15分ぐらいして陸が戻って来た。

「麻美おばちゃん、怒っとった?」

「うーん。説教されたけど、怒ってはいなかった」

「なんやて?」と聞くと、陸は少しもぞもぞとして顔を赤らめた。

 それから小さな声で、「高校出るまで、絶対に子供作ったらあかん。避妊は絶対に男の責任やて。それからこの事を、凪のお父ちゃんにも報告するて。あんた、叩かれるかもしれんから、覚悟しときって言われた。殴られるのはかまわん。そやけど凪と逢ったらあかんと言われたら、どないしよ。祐介おじさん、怒ると怖いん」と下を向く。

「子供……」と呟いて、凪はまたお腹の中にキュンとする物を感じた。

 どうしたら、子供が出来るのか、凪は中学校の保健体育の授業でも習っていたし、この年代はそういった事に興味津々で、友達同士でも話題に上がる事がよくあった。

「陸はさぁ。私としたいん?」と凪が小声で囁く。

「そらな。いつかはな」と陸はそっぽを向いた。

「私のこと好きなん?」

「そやなかったら、キスなんかするか。アホ」


 ――あれからまだ二年しか経っていない

 ――あの頃は何もかもが輝いて見えたのに……

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