第30話 指揮官は魔法オタク
貧民街の入り口に、新たな集団が静かに布陣していた。
物々しい鎧の代わりに、上質なローブを身にまとった五十名。
王宮魔術師団である。
彼らは騎士たちのような雄叫びを上げるでもなく、まるで研究室からそのまま出てきたかのような、静かで知的な威圧感を放っていた。
「さて、始めようか。諸君、王子直々の勅命だ。我々の研究の成果を、存分に披露する時が来た」
団長のクロムは、指揮棒の代わりに細身の魔導杖を振り、楽しそうに指示を飛ばす。
「団長、本当にこの区画一帯を焼き払うので?これでは住民ごと…」
「王子のご命令だ。それに、これほど大規模な殲滅魔法を、実戦で試せる機会はそうそうない。これは貴重なデータが取れるぞ!」
部下の懸念を魔法への探求心で一蹴し、クロムは地面に巨大な魔法陣を描き始めた。
幾何学模様が淡い光を帯びて浮かび上がり、周囲のマナが渦を巻いて収束していく。
その膨大な魔力の高まりは、即座に貧民街の奥で研究に没頭していた一人の天才に感知された。
* * *
「……不愉快ですわね」
ボロ家の壁にびっしりと術式を書き連ねていたチナツは、ピタリと手を止めた。
彼女は、この劣悪な貧民街の環境を恒久的に改善すべく、汚水を浄化し、病を祓い、痩せた土を蘇らせる、超大規模な環境改変魔法の術式を構築している最中だったのだ。
「せっかく、素晴らしい術式が閃きましたのに…。この雑音、脳に響きますわ」
外から流れ込む、無遠慮で品のない魔力の奔流が、彼女の繊細な思考をかき乱す。
「少し、お灸を据えて差し上げましょうか」
チナツはぱらりと魔導書を閉じると、静かに立ち上がった。
魔法陣が完成し、クロムは恍惚とした表情で両手を天に突き上げた。
「観測班、記録の準備はいいか!今から王国最高峰の魔法芸術をお見せしよう!いでよ、煉獄の嵐!――『ファイア・テンペスト』!!」
詠唱は完璧。魔力制御も完璧。魔法陣は眩いばかりの光を放ち、破滅的な熱量が解放される――はずだった。
しかし、次の瞬間。膨れ上がった光は、まるで水面に映った月のように揺らめき、ぷつり、と音を立てるように消え去った。
「…………ん?」
後に残ったのは、気まずい沈黙だけ。
クロムは信じられないという顔で、自分の手と魔法陣を見比べる。
「お、おかしいな…。魔力の流れも、詠唱も完璧だったはずだが…」
「団長、お待ちください!何かおかしいです!」
「何がだ!いいから諸君、各自、得意な攻撃魔法を放ってみろ!ファイア・ボールでも何でもいい!撃て!」
「は、はい!」「ファイア・ボール!」「ライトニング・ボルト!」「アイス・ランス!」
号令一下、色とりどりの魔法が放たれる。だが、その全てが陽炎のように揺らめき、霧となって掻き消えてしまった。
「なっ!魔法が!魔法が使えない!」
「術式が完成する瞬間に、強制的に分解されているような…こんな現象、聞いたことがないぞ!」
王国が誇るエリート魔術師集団は、為す術もなくパニックに陥った。
その時、彼らの前に、一人の少女がゆったりとした足取りで姿を現した。
「あらあら、お祭りかしら?私の庭で、火遊びは感心しませんわね」
まるで虫けらを見るかのような冷たい視線。
チナツは、呆れたようにため息をついた。
「お静かになさいな、凡人ども。私の先生がお昼寝されてるかもしれませんのに…」
「き、貴様かっ!この異常事態は、貴様の仕業か!」
クロムが杖を向けて叫ぶが、チナツは気にも留めない。
「あら、まだ分からないのですか?この程度のことも理解できないから、あなた方はいつまで経っても三流なのですわ」
「な、なんだと!?」
「この一帯には、わたくしが構築した『術式解体フィールド』が常に展開されていますの。あなた方のような、教科書をなぞっただけの旧式で陳腐な魔法では、術式が完成する前に構造式レベルで分解されてしまうのは、当然の理ですわ」
「じゅ、術式解体…だと!?」
「構造式レベルで!?」
クロムを含む全員が、衝撃に言葉を失った。
人間の領域を遥かに超えている。
「さて、お話はそれで終わりかしら?では、大人しくしていただきましょうか」
チナツが、すっと指先を振る。
詠唱も、魔法陣もない。ただ、それだけで、魔術師団員全員の足元から魔力で編まれた鎖が奔り、一瞬にして彼らを捕縛した。
魔法が使えない彼らに、抵抗する術はなかった。
こうして、王宮魔術師団は、一人の死傷者も出すことなく、完全に無力化された。
部下たちが絶望に打ちひしがれる中、団長クロムの反応だけが、明らかに異常だった。
「す…素晴らしい!なんという…なんというエレガントで美しい術式だ!」
彼は捕縛されたまま、子供のように目をキラキラと輝かせ、恍惚としていた。
「詠唱も魔法陣も完全に省略し、思考のみで五十もの対象にそれぞれ最適化された捕縛魔法を同時発動するなど…!ああ、神よ!私は今日、この地で、真の『魔法』に出会うことができた!」
「だ、団長…?正気ですか!?」
「ああ、また団長の悪い癖が…」
部下たちの呆れた声も耳に入らない。
クロムは、地面に頭をこすりつけんばかりの勢いで、チナツに向かって叫んだ。
「師匠ッ!!どうか、この私を、あなたの弟子にしてください!!」
「は?」
「給料も、地位も、名誉も、全て捨てます!ですから、どうか、その深遠なる魔法の真理の、ほんの入り口だけでも!この私にお教えください!お願いします!」
あまりに予想外の土下座と弟子入り志願に、さすがのチナツも一瞬、面食らった。
だが、目の前の男の瞳に宿る、狂信的ともいえる魔法への純粋な探究心は彼女の琴線にわずかに触れた。
「……まあ、どうしてもというのなら、仕方ありませんわね。私の研究の雑用係くらいには使ってあげなくもありませんわ」
「おお!ありがとうございます、師匠!」
こうして、王宮魔術師団もまた、団長の独断と奇行により、あっさりとアデルの陣営に吸収された。
その日の午後。
気持ちの良い昼寝から目覚めたアデルが、アジトから顔を出すと、そこには異様な光景が広がっていた。
ローブ姿の集団がずらりと整列し、クロムの号令一下、拳を突き上げている。
「総帥殿への忠誠を誓え!」「応!」「我らが師、チナツ様を崇めよ!」「応!」「総帥殿、チナツ師匠、万歳!」「「「アデル様万歳!!!」」」
「…………どうして?」
自分の知らないところで、またしても戦力が意味不明な増強を遂げている現実に、アデルは深いため息をつくしかなかった。
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