第24話 貧民街の浄化
炊き出しと、シエルによる不良グループの更生により、貧民街にはここ数年見られなかった明るい雰囲気が戻りつつあった。
子供たちの笑い声が響き、大人たちの顔にもわずかながらの笑みが浮かぶ。
しかし、アデルはそれで満足していなかった。
空腹は一時的に満たせる。だが、この街には、もっと根深い問題が山のように横たわっている。
不衛生な環境、蔓延する病、そして子供たちから奪われた未来――。
その夜、アジトの作戦会議室(という名の豪華なリビング)で、教え子たちが今日の成果報告に花を咲かせていた。
「今日の炊き出しは、842名に配給完了。大きな混乱もありませんでした」
カイネの報告に、アブリルがやれやれと首を振る。
「カイネさん、効率が悪いです。あの配給ラインでは、どうしても待ち時間が生じます。私が考案した三列配膳システムを導入すれば、処理能力は1.5倍に…」
「ですがアブリル、あなたのシステムは初期投資がかかりすぎます。兵站の基本は、現有戦力の最大活用です」
「ヒールを受けた患者は32名。改善率は7割でしたわ」
「へっ、俺にかかればこんなもんだぜ」
チナツのデータ報告に、シエルが胸を張る。
そんな四人の姿に、アデルは静かに、そして深く頭を下げた。
「みんな、ありがとう。本当に、感謝している」
突然のことに、四人の会話がぴたりと止まる。
「先生…?」
「俺一人では、何もできなかった。君たちがいてくれたから、あの人たちの笑顔を少しだけ取り戻すことができたんだ」
アデルは顔を上げ、一人一人の瞳をまっすぐに見つめた。
「だから、厚かましいお願いなのは分かっているんだが…みんなの力を、もう少しだけ、この街の人たちのために貸してはくれないだろうか。俺一人の力では、限界があるんだ」
それは、アデルにとって、心からの純粋なお願いだった。
だが、それを聞いた四人の教え子たちの反応は、彼の想像の斜め上をいくものだった。
しん、と静まり返ったリビングで、最初に口を開いたのはカイネだった。
彼女はカッと目を見開き、拳を握りしめた。
「――総帥からの、ご命令とあらば!!」
「ええ! 私の持つリソースを先生に示す絶好の機会です」
アブリルが目を輝かせる。
「貧民街の環境改善は、アジトの秘匿性を高める上でも有効なリスクヘッジに繋がりますわ」
チナツは、うんうんと首を縦に振る。
「ったく、先生は人が良すぎるぜ…」
シエルは呆れたように頭を掻きながらも、その口元には笑みが浮かんでいた。
「あ、いや、そんな大袈裟な話じゃ…」
アデルの戸惑いの声は、すでに燃え上がった四人の熱意の前では、風の中の囁きのようにかき消されていった。
翌日から、アデル先生連盟による、怒涛の街改革が始まった。
常識などという言葉は、彼女たちの辞書には存在しない。
まず動いたのは、アブリルだった。
「もしもし、ゴードン商会頭? ごきげんよう。…あら? あなたのところの三男さんが、うちのカジノでこさえた借金の額をご存じない、と?」
彼女は通信魔導具を片手に、優雅に紅茶を啜る。
「いえいえ、返せとは申しませんわ。ただ、あなたの倉庫で腐らせかけている小麦や干し肉、それと古着なんかを、貧民街に『寄付』していただければ、今回の件はわたくしの胸一つに収めておきますが…どうなさいます?」
半刻後、貧民街には数台の馬車が到着し、山のような物資が運び込まれた。
「シエル様! こちらの婆さんもお願いしやす!」
「ああ、分かったから並べって言ってんだろ!」
シエルは、アジトの前に建てたテントで、無料の診療所を開設していた。
彼女の治癒は的確かつ強力で、長年、病や怪我に苦しんでいた人々が、その奇跡の技を求めて列をなした。
「ちっ、面倒くせえな…ほら、治してやったぞ。次はなんだ?」
ぶっきらぼうな態度は相変わらずだが、その手から放たれる温かい光は、紛れもなく本物だった。
彼女の「聖女」としての評判は、瞬く間に貧民街に広がっていった。
「そこ! 隊列が乱れている! 走り込み50周追加だ!」
広場では、カイネの怒号が響いていた。彼女は元不良たちを中核とした「貧民街自警団」を組織し、地獄の軍事教練を施していた。
「俺たちは! アデルの兄貴と! シエル姐さんの! ご恩に報いるため! この街を守る盾となる!」
「「「応!!」」」
元リーダーの号令に、見違えるように統率の取れた動きで応える団員たち。
彼らはその有り余る体力を、道の補修や井戸の清掃、街の巡回といったインフラ整備に注ぎ込み、街の環境を劇的に改善させていった。
そして、子供たちの歓声が響くのは、チナツが開いた即席の寺子屋だった。
「いいですか。これが『火』の魔法陣の基礎構造です。この構造を理解すれば……」
「せんせー! 魔法陣より、お絵描きしたい!」
「却下します。学問とは、世界の真理を探究する神聖な行為ですのよ。まず、あなたたちは自分の名前を書けるようになりなさい」
最初は「凡人に教えることなど時間の無駄」と渋っていたチナツだったが、子供たちの純粋な「知りたい」という眼差しに触れ、いつの間にか誰よりも熱心な教師になっていた。
わずか一週間。
四人の教え子たちの、常識外れの能力と行動力によって、貧民街は奇跡的な変化を遂げた。
道は掃き清められ、悪臭は消えた。
食料と医療は安定供給され、犯罪は鳴りを潜めた。
そして、子供たちの学ぶ声が、未来への希望のように響き渡るようになった。
住民たちは、この奇跡をもたらしたのが、最初に温かいスープを振る舞い、そして、あの規格外の少女たちを動かしている、穏やかな男アデルであると、正しく理解していた。
いつしか彼らは、畏敬と親しみを込めて、アデルのことをこう呼び始めた。
「アデルの兄貴」、と。
「よお、聞いたか? アデルの兄貴、昔は一人で王国を救った大英雄なんだとよ」
「馬鹿言え。俺が聞いた話じゃ、兄貴は天界から俺たちを救うために舞い降りた神の使いだ。あのシスター様は、兄貴に逆らう奴を骨も残さず消し去るための天使様なんだと」
「うちの婆さんが言ってたが、兄貴がお祈りしたら、鍋の中の豆が三倍に増えたらしいぞ!」
アデルが、ただおたま一杯分のおかわりを追加してあげただけとは、誰も知らない。
本人が全くあずかり知らぬところで、「アデルの兄貴」伝説は、日に日に誇張され、神格化されていった。
そして、アデルのささやかな善意は、教え子たちの暴走によって、王都にその名を轟かせ始めていた。
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