第12話 追放の噂(シエル)

「シエルお姉ちゃん、こっちこっち!」

「待ってよー!」


王都から少し離れた町の孤児院。その庭に、子供たちの甲高い笑い声が弾けていた。

その輪の中心で、純白のシスター服を泥だらけにしながら走り回っているのは、シスター・シエルその人だった。


「捕まえてみなさい!」


悪戯っぽく笑いながら身を翻すシエルに、子供たちが一斉に飛びかかる。

彼女は軽やかにそれをいなすと、一番小さな男の子をひょいと抱き上げた。


「ほら、捕まえた。俺の勝ちね」

「ずるいー!シエルお姉ちゃんだけ速いもん!」


くすぐったそうに身をよじる子供を地面に降ろし、シエルは優しい眼差しで皆を見回した。

かつて王都でその名を轟かせた不良少女の面影は、子供たちに向ける慈愛に満ちた微笑みの前では完全に消え去っている。

民が彼女を「生ける聖女」と呼び、慕う理由がそこにはあった。


「はいはい、鬼ごっこはそこまで。おやつの時間にするわよ」


遊び疲れた子供たちと木陰に座り込み、焼きたてのパンを分け合っていた、その時だった。

一人の若い神父が息を切らしながら庭へ駆け込んできた。


「シスター・シエル! よかった、ここにいらっしゃいましたか!」

「どうしたの、そんなに慌てて。王都の研修はどうだった?」


数日前まで王都の本院へ行っていたはずの彼の顔は青ざめ、その表情は明らかに強張っていた。

ただ事ではない気配をシエルは瞬時に感じ取る。


「司教様がお呼びです。至急、聖堂まで来てほしいと…」

「司教様が? わかったわ。みんな、ごめんなさい。ちょっと行ってくるからいい子にしてるのよ」


子供たちの頭を優しく撫で、シエルは神父と共に聖堂へと足を向けた。




司教の執務室の重厚な扉を開けると、そこには厳粛な顔をした司教と先ほどの神父が硬い表情で待っていた。


「シエルよ、よく来てくれた。まあ、座りなさい」


司教に勧められるまま椅子に腰を下ろすと、部屋の空気がずしりと重くのしかかるのを感じた。


「王都で由々しき事態が起きた。そなたもその名を知っているはずの男だ」


司教はそう言うと、傍らに立つ神父に視線で促した。

神父はこくりと唾を飲み込み、震える声で報告を始めた。


「…アデル・スターロが、第一王子殿下への反逆罪で…国外追放処分となりました」

「……は?」


シエルの口から、間の抜けた声が漏れた。神父の言葉が、耳には届いても、脳まで届かない。


「今…なんて言った? 誰が、なんだって?」

「ですから、アデル・スターロが…」

「アデル先生が、反逆罪…?」


シエルの脳裏に、訓練所で出会った教官の姿が鮮やかに蘇る。

誰よりも厳しく、誰よりも優しかった男。札付きの不良だった自分に最後まで向き合ってくれた恩師。


「馬鹿なこと言わないで。あの人が、反逆? ありえない」

「しかし、これは王宮からの正式な布告でして…」

「詳しく話しなさい! 一体何があったの!」


シエルの語気が荒くなる。神父は怯えたように一歩下がりながらも、王都で耳にした公式発表をそのまま繰り返した。


「第一王子殿下への度重なる諫言が不敬とみなされ…ついには、王子殿下に暴行を働いた、と…」

「暴行!? ふざけんじゃないわよ! あの人が理由もなく人を殴るわけないでしょ! あんた、先生のこと何も知らないくせに、よくそんなデタラメが言えるわね!」


聞けば聞くほど、腹の底で黒い炎が燃え上がるのを感じた。おかしい。絶対に何かの間違いだ。いや、違う。これは間違いなんかじゃない。

偉い奴らが、自分たちの都合のいいように捻じ曲げた、汚い筋書きだ。


神の教えの下にあるこの場所だけは違うと信じようとしていた。

だが、結局は同じだった。この国の頂点に立つ人間が平然とそんな不正を働くというのなら、神の正義など、一体どこにあるというのか。


シエルの激しい動揺を見て取った司教が、諭すように口を開いた。


「シエル、落ち着きなさい。人の世の裁きは時に過ちを犯す。我らにできるのは、罪を犯したアデル殿の魂が救われるよう、そして、傷つかれた王子殿下の心が癒されるよう、神に祈りを捧げることだけだ」

「祈る…?」


シエルの唇から乾ききった声がこぼれた。

彼女はゆっくりと立ち上がると、その瞳から聖女の慈愛は消え失せ、かつて路地裏を支配していた挑戦的な光がギラリと宿っていた。


「司教様。あんたは何も分かってない。間違ってるのは先生じゃない。あいつを罪人にした、この国の偉い奴らだ」

「シエル! そのような物言いはやめなさい! それは神の教えに背く考えだ!」


司教の叱責も、もはや彼女の耳には届かない。


「俺に『本当の正義』ってやつを教えてくれたのは神様じゃねえ! アデル先生だ!」


シエルは拳を握りしめ、言葉を叩きつける。


「その先生が、理不尽な目に遭ってるってのにただ指をくわえて祈ってるなんて、俺にはできねえ!」

「それが我ら聖職者の務めだ!」

「だったら、俺は聖職者なんかじゃなくていい!」


決意は固まった。神に仕える道と恩師を救う道。天秤にかけるまでもない。

神はどこか遠くから見ているだけかもしれないが、アデルは汚泥の中にいた自分の手を確かに掴んで引きずり出してくれた。

信じるべきはどちらかなんて考えるまでもなかった。


「祈ってる場合じゃない」


そう言い放ち、シエルは踵を返して部屋を出て行こうとした。


「待ちなさい、シエル!」


司教の焦った声が背中に突き刺さる。


「お前は次期聖女候補の一人なのだぞ! その輝かしい道を自らの手で捨てるというのか!」


シエルはドアノブに手をかけたまま、一度だけ足を止めた。

そして、振り返ることなく言い放った。


「そんなもん、先生を助けられるなら、くれてやるよ」




その夜。月明かりだけが差し込む質素な私室で、シエルは旅の支度を整えていた。

彼女は、いつも身につけていた純白のシスター服を脱ぐことなく、その上から黒い外套を羽織る。

鏡に映った自分の顔は、すっかり昔の不良少女に戻っていた。

だが、その瞳の奥に宿る光は、かつての自暴自棄なそれとは違う。守るべきもののために戦うという、鋼のような意志の光だった。


机の上に、一枚の短い手紙を置く。

司教と、孤児院の子供たちに宛てたものだ。そこには、ただ一言。


『迷惑かけてごめんなさい。必ず戻ります』


窓を開け放ち、夜の闇へと身を躍らせる。

彼女は音もなく地面に着地した。


兵役で身体に叩き込まれた体術は、少しも錆びついてはいなかった。


聖堂を後にして、シエルは王都へと続く道をひた走る。

まずは情報を集めなければ。先生が今どこにいるのか、突き止めなければ。


チナツのような高度な魔法も、アブリルのような広大な情報網も彼女にはない。

しかし、彼女には度胸と、アデルに鍛え上げられた強靭な肉体、そして、何者にも屈しない熱い正義の魂があった。


ーーーーー


星・ハートが今後のモチベーションになります。よろしくお願いします。

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