第11話 追放の噂(チナツ)

王立魔導学院の大講義室。チナツ・フォン・ハイゼンベルクが教鞭をとる「高位魔法理論学」の講義は、今日も静寂と緊張感に包まれていた。

学生たちは、チナツの放つ怜悧な気配に圧倒され、ペンを走らせる音以外は何も聞こえない。


講義の終盤、自習時間に入った時のことだった。

後方の席に座る貴族の学生たちのひそひそ話が、聴覚を強化していたチナツの耳に届いた。


「おい、聞いたか?例の一般兵訓練所の教官、アデル・スターロのことだ」

「ああ、ルキオン王子へのパワハラで国外追放になったって話だろ?父上が言っていたよ。なんでも、王子の才能のなさを罵倒したとか」

「元は聖騎士団のエリートだったらしいが、落ちぶれたものだな」

「王子に楯突くなんて身の程知らずもいいところだわ。自業自得ですわね」


下世話な好奇心と優越感に満ちた嘲笑うような声。

チナツは、表情一つ変えず、黒板に向き直った。


しかし、その手の中で、チョークが音もなく粉々に砕け散ったのを誰一人として気づかなかった。




講義終了の鐘が鳴る。


(アデル・スターロが、国外追放…?)


チナツは一人、誰もいなくなった講義室で先ほどの会話を反芻していた。


(馬鹿馬鹿しい。あの人がそんな愚かなことをするはずがない)


あの人は、誰よりも人の才能を見抜く目に長け、誰よりも辛抱強く、相手の心に寄り添う指導をする人間だ。

ましてや、生徒を罵倒するなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。


(しかし、噂の出所が王宮に近い筋…ただのゴシップにしては具体的すぎる)


チナツは、自身の研究室へ戻るなり、床に複雑な魔法陣を描き始めた。


「起動――『千里眼の水晶(クリスタル・ゲイズ)』」


水晶球を媒介に、王都内に張り巡らされたエネルギー網にアクセスし、情報を傍受する高等魔法。

水晶球の表面に、ノイズと共に様々な情報が断片的に流れ始める。

王宮内の衛兵たちの通信、貴族間の秘め事、役人たちの業務連絡。

彼女は、その膨大な情報の中から、「アデル・スターロ」というキーワードに関連するものだけを驚異的な集中力で拾い上げていく。


数時間にわたる情報の傍受と分析の末、チナツはついに事の真相に辿り着いた。

公式発表は「王子へのパワハラ」。

だが、実際に王宮内で交わされている情報の断片を繋ぎ合わせると全く違う構図が浮かび上がる。


『王子殿下、訓練を一日で放棄されたらしいぞ』

『国王陛下、ご子息の言葉を鵜呑みにされ、アデル・スターロ殿に弁明の機会すら与えなかったとか…』

『なんでも、アデル殿は反逆者として国外追放に…功労者に対してあまりに理不尽な…』


チナツは、魔法を解除すると、椅子に深くもたれかかり、天を仰いだ。

研究室の気温が、まるで冬になったかのように数度下がる。彼女の魔力が、抑えきれない怒りに呼応し、無意識に氷結魔法を発動しかけていた。


(愚か…あまりにも、愚かすぎる…!)


一国の王子が、この程度の稚拙な嘘で自分の怠慢を誤魔化すとは。

そして国王は、その嘘に気づくこともなく、国に多大な貢献をしてきた功労者を虫けらのように処分するとは。

これが、この国の頂点に立つ者たちの姿なのか。


軽蔑と失望。

そして、その感情はやがて静かで、しかし底なしの激しい怒りへと変わっていった。


(彼らは、アデル・スターロを侮辱した。この私、チナツを唯一「本当の天才」と認め、その力を正しく導いてくれた、ただ一人の師を!許せるはずがない…!)


チナツは、静かに立ち上がった。

彼女は机の引き出しから、一枚の羊皮紙を取り出し、羽ペンで手早く何かを書きつける。


『学院長殿。一身上の都合により、当面の間、休講とさせていただきます。 チナツ・フォン・ハイゼンベルク』


彼女は研究室の窓を開け、夜の冷たい空気を吸い込んだ。

今のこの平和は、愚かな者たちによって築かれた脆い砂上の楼閣に過ぎない。


(ならば、私がそれを正してさしあげますわ)


「あなた方が侮辱したのは、この国で最も価値のある人間です」


チナツは、夜の闇に向かって、冷たく呟いた。


「その罪の重さ、私の魔法で骨の髄まで教えて差し上げます」


彼女は窓枠に足をかけると躊躇なく夜空へとその身を投げ出した。

風の魔法によってふわりと宙に浮き、一直線に王都中心部を目指す。


まずは、師の身柄を確保する。そして、愚者たちを断罪する。


氷の女王は学舎を後にした。その瞳は、絶対零度の怒りに燃えていた。

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