「エンド・オブ・"パラレル"」 〜ゴミと呼ばれた魔人は、世界を壊す〜

Episode.19 女王

　泣きじゃくるゴミの手は、皮が剥け、傷だらけだった。

　ひび割れた爪の隙間には泥が詰まり、指の関節は腫れ、あちこちにひどく膿んだ痕が見える。

　何色かも分からないほどに汚れたその手は、もはや人のものとは思えなかった。

　それでも──

　エルフ族（エルフィ）の女王、エクリオンは、その手を決して離さなかった。

　無言で、ただ静かに。

　その掌を両手で包み込み、まるで凍てついた魂ごと抱きしめるように、彼の手を温め続けていた。

　初めは、石のように冷たかった。

　生命の気配など微塵も感じられなかったその手が、嗚咽と共に、少しずつ温もりを取り戻していく。

　まるで──絶望の底で止まっていた時が、ようやく動き始めたかのようだった。

　普段なら賑やかで騒がしい通りが、今だけは異様な静けさに包まれていた。

　誰もが息を呑み、目の前の光景に言葉を失っていた。

　その圧倒的な気迫に、誰ひとりとして動くことも声を発することもできず、

　まるで時間が凍りついたかのように立ち尽くしていた。

　だからこそ──

　ゴミのしゃくり上げる泣き声が、やけに鮮明に響き渡った。

　膝をついたエクリオンは、底辺の存在（どれい）たる魔族（マージ）の少年の手を取り、その背をやさしく摩（さす）っていた。

　その姿に、同じように虐げられてきた奴隷たちは、込み上げてくるものを抑えきれなかった。

　彼らは次々に堪えていた涙を頬に伝わせ、膝をついていく。

　──過去の自分を、抱きしめてもらっているようだった。

　魂の抜けたような表情をしていたクズですら、嗚咽（おえつ）を漏らし、顔を覆って泣き崩れていた。

　クズの心の奥底に、ぽつんと残っていた何かが、

　エクリオンの姿に触れて溶け出していた。

　醜く、汚れ切った自分たちに向けられた、あまりに眩しすぎる慈愛に、彼女は混乱しながらも、ただただ泣いていた。

　奴隷たちは、祈るように女王を仰ぎ見た。

　その姿は、もはや女王というより“神”であった。

　やがて一人、また一人とひれ伏し、その神のごとき存在に感謝を捧げるように頭を垂れた。

　ようやく我に返った町人たちも、女王の放つ光に打たれたように震え、

　そして恐る恐る膝をつき、静かにその場に伏していった。

　彼女が発する気配は、敬意では言い足りない。

　畏怖と、崇拝と、絶対への服従──

　誰もが知った。

　そこに立っているのは、たった一人で“世界を変えてしまう”ような存在だということを。

「さて──」

　エクリオンは、ぐしぐしと涙を拭っていたゴミをそっと立たせ、静かに周囲を見渡した。

　涙を流し続けたせいで目元は赤く腫れていたが、

　彼の表情には以前のような虚無はなかった。

　頬はわずかに紅潮し、なぜか身体を硬直させている。

（な…なんだろう……この感じ……

　どうしてこんなに、胸が……苦しい──）

　混乱しながらも、確かに何かが自分の中で変わってしまったことを、彼は感じていた。

「どう収拾をつけようか？」

　エクリオンが、柔らかく、しかし空気を裂くような声で問いかけた。

　……だが、誰一人として答えようとする者はいなかった。

　神々しさすら纏うその声に、ただ息を呑み、沈黙があたりを支配する。

　永遠にも思える静寂が、張り詰めた空気と共にそこにあった。

　全員がひれ伏す中、微動だにしなかったのは、ガンサイとゴイルだった。

（おい……この状況なんとかしろ……！お前の得意分野だろ！）

（え…ええ！そりゃ無茶でやすよ……）

（いいからなんとかしろ！！二時間後には例のテストだぞ！！）

　ゴイルは、ガンサイと女王の間で視線を泳がせていた。

　その頬を大量の脂汗が流れ落ち、膝は震え、呼吸すら浅くなっている。

（──クソ……クソッ！！どうすればいい！？）

　彼の思考は焦りと恐怖に飲まれていた。

　────────────

　──子供の頃からそうだった。

　背は小さく、腕っぷしもない。

　だから、強い奴の影に隠れて、勝ち馬に乗ることで生き抜いてきた。

　誰の陰にいれば安全か。

　誰に逆らえば死ぬか。

　それだけを嗅ぎ分ける嗅覚だけで、ここまで這い上がってきた。

　そして今、その全てが意味をなさないほどの“格”が目の前にある──

　────────────

（逃げ道が……ねぇ──！）

　しかしゴイルは、絶望の中でも考え続けた。

　どちらについても破滅は免れない。

　だが──

（……一か八か、だ）

　唇を噛み、彼は震える足を一歩前に踏み出す。

　エクリオンの瞳が、静かに、だが確実にゴイルを捉えていた。

　そのプレッシャーに足がすくみそうになるが、彼はなんとか声を絞り出した。

「ほ…本当に女王様なのでしょうか？」

　ざわ──

　民の間に波紋が走る。

「ほう？私を疑うと……？」

「い…いえ、そう言うわけではなく……」

「ではなんだと言うのだ！！！」

　ゴイルは女王の圧を必死に耐え、思考を続けた。

（考えろ……！何かあるはずだ……この状況なんとかできる何かが──）

　絶望的とも言える状況が逆に彼の真価を発揮させ、彼の生存本能が奇跡の一手を授けた。

　そしてゴイルは己の思考力に恐怖しながらも、口元をニヤリと緩ませる。

「いえね……ちょっと小耳に挟みまして」

「なんだ？」

「現在のエルフ族（エルフィ）の”内情”を」

「！？」

　ゴイルの言葉に目を見開き、小さく汗をかくエクリオン。

　その様子を目を細め伺うガンサイ。

「あれあれ？如何（いかが）なさいましたかな？エルフ族（エルフィ）の女王様」

「……」

「なにも……言えませんか？言えませんよねぇ？だって本当に女王様であればこんなところにいれる状況ではないのですから！！！」

　ガンサイが首を傾げる。

「……どう言うことだ？」

「知られてはおりませんがね、実は現在エルフ族（エルフィ）は内戦状態にあります」

　ゴイルの発言に衝撃が走る。

　エルフ族（エルフィ）と言えば、世界最古から存在する種族で、世界のリーダーと言っても過言ではない種族。

　その上女王エクリオンといえば、数千年にわたり世界を収め、神の眷属（けんぞく）であるとまで言われる名君。

　内戦どころか、圧倒的なカリスマ性で信望する者はいても、反発するものなど存在しないはずだった──

　その為、ゴイルの発言が真実であれば、世界の常識を覆すほどの大ニュース──ということになる。

「その情報は本当なのか！？」

「実（まこと）しやかに流れる噂程度だと思っておりやしたが、どうやらこの反応……強（あなが）ち間違えではなさそうで」

「ち…違う！！」

「おやおや？違うのであればこんな噂、エルフ族（エルフィ）として正式に発表するなりして、対策すればよろしいではないですか？いずれにせよこんなところにいれる状況ではないと思いやすがね」

「それは……」

「それとも……あなたも娘に殺されるのは恐ろしいでやすか？」

「貴様……」

　町民がざわめく。

「え……」

「どういうこと？」

「女王様に娘がいたのか！？」

　町民たちは顔を見合わせ、どよめき始める。信じたくないという思いと、事実かもしれないという不安が交錯し、表情は次第に疑念へと傾いていく。

「そんなはずない！」

「いや、でも……あの様子……」

「まさか、本当に……？」

　町民の反応に満足げに笑うゴイル。

（本当かどうかはともかく、相手を混乱させる手法は流石だな。今のうちに──）

　ガンサイは門番を呼びつける。

（ゴイルの野郎がいちゃもんつけてる間に、領主のところへ行って領主と兵隊を連れてこい）

　ガンサイの言葉を受け、すぐに出発する門番。

（よしよし……いい流れだ）

「皆様ご存知ないですかぁ？では語らせていただきましょう。その愛と憎悪の物語を！！」

「黙れ……」

　民衆は興味津々に身を乗り出す。

「今から十五年前、かの女王エクリオン様は愛娘、ファルシュリオン様を授かりました！

　数千年に亘（わた）る命の中、初めて得た自らの分身たる我が子──

　世間には隠し、密かに育てられたその王女が自らの父を殺し、クーデターを起こした張本人にございます！！」

　皆が息を呑んだ。

　空気すらも音を失ったかのように、広場が凍りつく。

　ガンサイも、あまりの衝撃にあいた口が塞がらなかった。

「そしてその張本人はどこかに身を隠しているのだとか──」

　エクリオンを見やる。

「そうですよね？女王陛下？」

　皆の視線がエクリオンに集まる。

「え……偽物、なのか？」

　疑念の火種が、広がっていく。

「冷静に考えてみぃ！王都でもないこんな辺鄙な場所に、お供も連れず旅行ですかい？

　……そんなはずがあるか！」

「確かに──」

「そういえば一人しかいない……ってことは、まさか！」

「でもさっきの様子は……神のようだったぞ……」

「だが、本当に“あの”女王なら……この場で証明できるはずだ……」

　彼の煽りは、民に着実に浸透していく。

（──よし、乗ってきた！）

　彼からすると町民が乗る前に噂を否定され、女王と証明されてしまったら終わりだった。

　特に後半など民衆を乗せる為にゴイルが考えたでっち上げでしかない。

　しかしエクリオンは先ほどから沈黙を保ったままだ。

　女王の証を出して証明しようともしない。

　それが、ゴイルにとっては“肯定”に見えた。

（これは……勝てるッ！）

「そもそも女王であれば、ご自身の身分を証明できますよねぇ？まあ、俺が言った後じゃ何を出してきても怪しいですがねぇ──」

　その瞬間だった。

　空気が、変わった。

　突如、彼の全身に圧がかかる。

　一瞥──

　視線だけで、息を奪うような圧。

　エクリオンの視線が、刺すように彼を捉える。

「──我が国の内情を憶測だけでべらべらと……」

　明らかに先ほどまでのオーラとは違い、強烈な殺気を放っていた。

「無礼じゃ収まらないな……余程命のいらない阿呆と見える」

「あ……あ……」

　桁外れの殺気に過呼吸のようになり、息ができなくなるゴイル。

「もう一度言う……黙れ、小僧が！！」

　ただ、それだけ。

　それだけで、世界の全てが沈黙する。

「う……ぐ……」

　ゴイルは言葉を失い、その場に崩れ落ちる。

　口から泡を吹き、目を見開いたまま、意識を手放した。

　これこそ王たる証明。

　まさに──“絶対”の力だった。