「エンド・オブ・"パラレル"」  〜ゴミと呼ばれた魔人は、世界を壊す〜

凪織弥

Prologue 世界

【日時】西暦1994年7月20日(水)10:00

【場所】都内某大学 中庭



 “世界”に鳴り響く、夏の声。


 一年前の冷夏が嘘のように、今年の都内は連日、体温を超える暑さを記録していた。


 白く霞んだ空にアスファルトの照り返しが重なり、街全体がじりじりと焼かれているかのよう。

 蝉の声はやかましく、時間さえ焦がしてしまいそうな陽光ようこうが降り注ぐ──


 まるで、“何か”が、ゆっくりと焦げ始めているような、そんな夏だった。


 大学の中庭には、石畳の小径こみちと乾いた芝生、そして中央に据えられた噴水。

 わずかに聞こえる水音が、空間にかすかなリズムを添えていた。


 平日の午前十時。講義の合間でも、行事の最中でもない時間帯。

 そこには、ただふたりの姿だけがあった。


 男は、少し癖のある黒髪を七三に分け、細縁の眼鏡をかけている。

 筋肉質ではないが、無駄のない引き締まった体つき。

 白いワイシャツにベージュのスラックスという、誠実な装い。

 だが、この酷暑には明らかに不釣り合いで、見ているだけで暑苦しい。

 それでも彼にとって、それは“正しさ”であり、守るべき“身だしなみ”だった。


 ──けれど今、彼はその正しさから逸れていた。


 目の前の彼女に、理由もなく心を奪われている。


 “優等生”として積み重ねてきた論理など、いまは何の役にも立たなかった。

 彼女の存在だけが、彼の思考を押し流していた。


 銀色のボブヘアが陽を受け、水面のように揺れる。

 白いTシャツに、淡いブルーのジーンズ。

 飾り気のない装いが、かえって彼女の輪郭を際立たせる。

 ウエストからヒップにかけての柔らかなライン、鎖骨の陰影、首筋の白さ。

 整った顔立ちと、小さく尖った耳が、現実感をわずかに遠ざけていた。


 ──だが何よりも心に残ったのは、その瞳だった。

 深く、大きく、どこまでも澄んだ瞳が、まっすぐにこちらを見つめている。


 彼女は、自分が見られていることに気づいていた。

 そして静かに歩み寄ってくる。

 眉をわずかに寄せ、大きな瞳を細めながら、訝しむように。


「……あの」


 その声は、蝉の鳴き声よりも静かで──けれど、確かに届いた。

 それはまるで心の奥に染み渡るような透き通った綺麗な声だった。


 彼は喉が詰まり、言葉が出てこない。


「だ…大丈夫ですか?」


 もう一歩近づいた、その瞬間──


「っあ……はいっ!!」


 男は唐突に声を上げた。


「す…すみません、あの……」

「いえ、別に。私、何か変でしたか?」

「い…いえ!ちが…違います!」


 慌てて否定するも、言葉は空転くうてんする。


「先ほどから、じっと見ておられたので……」

「っ……み…見惚みとれて……たんです、はい」


 かすれた声。頬が赤らむ。

 言った本人が一番驚いていた。


「ふふ」


 困惑でも嘲笑でもない、やわらかな笑みが返る。


「体調が悪くないなら、よかったです」


 そう言って彼女が少し身を引こうとした、その時──


「ま…待ってください!」


 思わず声が出ていた。


「……はい?」

「……あの」


 言葉が追いつかない。だが口だけが先に動く。


「結婚してください!」


 蝉の声が遠ざかる。


 彼女は一瞬、目を見開き──微笑んだ。


「初対面でプロポーズされたのは、さすがに初めてです」

「っ!? あっ、ちがっ……そういうわけじゃ──いや、そういうわけでも……!」


 しどろもどろに言葉を探す。

 視線が彷徨さまよい、背筋まで熱を帯びていく。


「でも、不思議ですね」


 彼女はふと空へと視線を向け──


「私も、あなたに……出会うべくして出会ったような気がします」


 その瞬間、世界が祝福しているように思えた。


 風も、音も、光も、すべてが静まり返り──ふたりを見守っている。

 まるで世界が、ふたりだけを切り取ったかのように。


 それは、確かに“始まり”だった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「と、まあ──」


 パタンと本を閉じる音が響く。


「こうして、物語が始まるわけだけどさ」


 真っ白な空間。

 どこまでも広がる、何もない世界。

 そこに、“ひとり”が座っている。

 その姿はぼやけていて、はっきりとは見えない。


「……誰に話しかけてるかって?そりゃ君だよ。画面の前でこれを読んでる、そこの君!」


 にやりと笑い、立ち上がる。


「このあと二人は大学を卒業して、結婚して、三年半後に双子の男の子。

 さらにその二年後には、女の子を授かる──なんて幸せな家族なんだろうね!」


 陽気に腕を広げて語る。けれど、返事はない。


「……でもさ」


 ふっと力が抜けたように、腕をおろす。


「“世界”ってのは、ひとつじゃないんだよ。

 それにひとつひとつの世界に、無数の物語がある。

 ある世界では、少年が青春を謳歌おうかしてる。

 ある世界では、ほんの少しの違いで、誰かがしいたげられ、絶望の中で空を見上げる──

 ……そして、ある世界では──魔王が世界を支配してる!」


 突如とつじょとして空間を指さし、決めポーズを取る。


「……なんてね。驚いた?」


 茶化すように笑う声は、まるで悪戯いたずらっ子のよう。


「でも、冗談ばっかりじゃない。

 世界ってのは、時として交差こうさする。

 それが幾重いくえにも重なったとき──“奇跡”ってやつが、起きることがあるんだ」


 手をかざすと、虚空こくうに一冊の本が現れる。


「この物語には、"二人"の主人公がいる。

 これは、世界が生まれ、そして壊れるまでの物語──」


 言葉が止まり、空間に静寂せいじゃくが落ちる。


「……ん?」


 彼は耳に手をあて、何かを聴こうとする仕草を見せる。


「……やっぱり、気になる?僕が誰かって?」


 一拍の沈黙。そして、微笑んで首を振る。


「ふふ、僕のことは──もう少し後にしよう。

 物語が終わる頃、また話すよ」


 少しだけ寂しげな目元を浮かべながら、空間の彼方かなたを見つめる。


「僕の正体が知りたいなら──どうか、飽きずについてきて。

 すべてを知ったときに、また会おう。

 ……君がそれを後悔しないことを、祈ってる。

 世界が壊れる、その時まで──」


 そして次の瞬間。

 そこにいた“彼”の気配が、ふっと消えた。

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