第30話 決戦と代償
### 第30話「決戦と代償」
封鎖鐘が鳴り止む前に、空は二度目の裂け目を開いた。赤黒い薄膜が中央広場の天井を剝ぎ取り、その裏側にむき出しの「裏面」をあらわにする。縫い目は呼吸のたびに開閉し、光が吸い込まれては吐き戻された。
境界守は即応した。アルマが路面全域に薄い結界を敷き、ガランが先陣で通路を切り拓く。イオの符が空に羅列され、数十層の記録陣と観測陣が重なった。セラは街区の輪郭へ糸を張り、寿命の端をそっと裂いて芯糸を露出させる。ユリスは蓮の手首を握り、短く言った。
「行こう。戻る前提で、行く」
蓮は頷いた。胸の扉が内側から叩かれ、赤黒い熱が喉の奥で形を持つ。選んだのは係留。ユリスの掌の冷たさが、座標として皮膚に刻まれている。
裂け目の縁から、竜がもう一体顔を出した。先の個体よりも細身で、だが心臓の鼓動は速い。鱗は硝子のように薄く、内部の赤が透けて見える。開いた口腔の奥で、細い糸状の炎が縫い目を舐めていた。
「主系、同調率七一……上昇中」
イオの声が冷える。アルマの号令が重なった。「前衛、斜めに。庇を作れ。セラは輪郭を保て」
蓮は息を整え、掌に蒼白を集める。だが次の瞬間、背骨の内側から別の波が立ち上がった。赤黒い。甘い。触れれば、全身の骨格が軽くなる。
――貸す。ひとときだけ。救えるだけ、救え。
囁きは理屈を伴っていた。蓮は目を閉じ、内側の扉を半分だけ開く。漏れ出た波は、ユリスの手で鈍く減衰し、蒼白と相殺して薄色の刃に変わった。
「大丈夫。ここにいる」
ユリスの声を錘に、蓮は走る。ガランの巨刃が脚を払う直前、蓮は竜の喉の継ぎ目へ刃を差し込んだ。薄い鱗が裂け、赤い蒸気が上がる。竜が仰け反り、尾が円弧を描いた。アルマの壁が滑るように生じ、衝撃を側壁に逃がす。
セラの糸が軋んだ。街の輪郭が震える。彼女は歯を食いしばり、さらに糸を二本追加する。頬から色が抜け、指先が震えた。
「持って、持って……」
次の瞬間、竜が口を開いた。炎ではない。低い風の音だけが鳴り、目に見えない衝撃が広場を平らに押し潰す。結界の層が数枚はがれ、市民の笑顔が一瞬だけ焦点を失った。
「境界面、欠損!」
イオの叫び。ガランが押し返し、アルマが面を再配置する。蓮は膝を着きかけ、ユリスの手に指を食い込ませた。赤黒い波が暴走に傾く。喉から知らない言語が漏れそうになる。
「蓮、名前を」
ユリスが言った。「自分の名前を言って」
「しのもり——蓮」
音が座標を戻す。蓮は息を吸い、波をさらに細く絞る。赤黒と蒼白が編み目になり、刃ではなく“格子”を作った。格子は竜の周囲に落ち、心臓の拍に同期して縮む。
「今!」
ガランの巨刃が心臓殻を叩き割り、アルマの針が裂け目を縫うように貫いた。イオの記録陣が光り、セラの糸が街の輪郭を固め直す。竜の瞳孔が花のように開き、次いで萎んだ。
静寂。——終わった、ように見えた。
その刹那、心臓の奥から反転する衝撃が弾けた。格子は内側から食われ、赤黒い芽が一斉に伸びる。竜の核は囮だった。裂け目の裏面から、主の指が直接こちらへ触れたのだ。
蓮の輪郭が薄れた。肩から腕へ、線が紙の端のように透けていく。呼吸のたび、身体の一部が“あちら側”へと引かれる。ユリスの顔が遠ざかる。音が水に沈む。
——来い。我が子。
その声に身がほどける。抵抗よりも、帰属が心に優しい。蓮は一歩、踏み出しかけた。ユリスの手が離れ、空気が冷える。
ぱち、と頬に痛み。ユリスの掌が蓮の顔に触れていた。涙がそこに落ち、冷たさと塩の味が現実を戻す。
「戻って。ここは痛いけど、あなたの場所」
ユリスは胸元から古い布片を取り出した。子どもの頃、二人が遊び場にしていた路地の目印——青い布の切れ端。修復で消えた“昨日”の記憶の欠片だ。
「覚えてる? ここに隠した宝物。あの日、あなたは負けて泣いた。私は笑って、でも一緒に探した」
布の色が、匂いが、指のざらつきが、蓮の皮膚へ戻る。赤黒い波の間を、確かな青が横切った。名前、匂い、温度——人間を構成する座標。
「……戻る」
蓮は格子を作り直した。今度は自分の中へ。赤黒い波を自分の骨格に結びつけ、蒼白で縁をかがる。主の指が抜ける刹那、格子が反転して“こちら側”を優先した。断ち切られた赤黒が音もなく霧散する。
竜が崩れた。硝子の鱗が砂に変わり、風がそれを運ぶ。裂け目はしわを寄せるように縮み、最後の針目がアルマの手で結ばれた。
静けさ。修復の膜が街に戻る。笑い声が均質に広がる。
ユリスが座り込む。蓮もまた、片膝をついた。自分の手を見る。指紋の線がかすれている。名を呼ばれて振り向くまで、半拍ほど遅れる。何かを置いてきた。戻るために、何かを切り捨てた。
「……大丈夫?」
ユリスの声は掠れていた。蓮は頷く。頷きながら、胸の奥の空洞を指でなぞる。
「少し、削れた。でも——帰ってこれた」
ガランが肩を叩く。重いが、確かな現実の重さだ。イオは結晶を抱え、目を伏せる。「記録する。君が帰還に成功したこと、代償の内容、再現条件……すべて」
セラが糸を解き、静かに笑った。唇は色を失っているのに、不思議と温かい笑みだった。「おかえり」
アルマは空を見上げる。裂け目は閉じた。だが高空の薄膜は、依然として細く痙攣を続けている。
「勝ちは、次の一歩を得たという意味に過ぎない」
蓮はユリスの手を握った。青い布片のざらつきが掌で確かだった。胸の空洞に風が通り、痛みが座標になる。
「次も、戻る。何度でも」
それは宣言ではなく、生活の予定のように平らな言葉だった。広場の片隅で、焼きたてのパンの匂いがした。修復の膜は今日も完璧で、明日のための欠落をそっと隠し続ける。
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