第29話 境界の選択

### 第29話「境界の選択」


 竜の喉が断たれた後も、空は完全には閉じなかった。赤黒い薄膜が高空で痙攣し、ときおり糸のような亀裂が走る。〈レグナス〉の表は笑い合い、露店の輪は広がっていく。だが境界守の耳には、耳鳴りのような低い振動が止まなかった。


 篠森蓮は診療詰所の簡易寝台で目を覚ました。体は重く、喉に熱い砂を詰められたような渇きがある。カーテン越しにユリスの影が揺れ、椅子の背にもたれて眠っていた。額にかかる前髪、指先に残る擦り傷。誰かのために走り続けてきた日々が、そこに縮んで見えた。


 ――選べ。


 囁きが胸骨の裏で鳴った。視界がわずかに二重に揺れる。蓮は上体を起こし、声にならない息を吐く。


「……俺は、どちらに」


 カーテンが開き、アルマが入ってきた。灰金の瞳は疲労を隠さず、しかし揺れない。


「歩けるか。会議だ」



 本拠の地下会議室。壁の燭が短くなり、煤が天井に花のような影を作っている。円卓の上には街区図と波形の記録結晶。イオが淡々と読み上げる。


「境界面の疲労は臨界域。修復密度の上昇により、齟齬の自覚者は四割弱。封鎖の持続は困難。……決定が必要です」


 ガランが短く唸り、拳を握った。「決定とは、あいつを——」


 アルマが言葉を継いだ。「蓮を“柱”にする案だ。主系に近い波を逆位相で固定し、裂け目を縫い止める。成功すれば街は保つ。代償は……」


「彼の人としての連続が、そこで切れる」イオが言った。声音は平板だが、視線は逃げ場を探していた。


「待って!」


 ユリスが立ち上がる。椅子が背で跳ね、鈍い音を立てた。「そんなの、解決じゃない。犠牲を鎖にして街を支えるのは、もう終わりにするって、私たち……」


「終わっていない」アルマは静かに遮った。「秩序は誰かの代償でしか保てない。少なくとも今は」


 沈黙が落ちる。セラは膝に両手を組み、祈るように下を向いている。頬は透けるほど白い。昨夜からほとんど目を閉じていないのだろう。


 イオが結晶を押し出す。「篠森蓮の波動は、主系に同期しやすい。しかし同時に、外れもしやすい。係留点があれば——」


「係留点は、私がやる」


 ユリスの言葉は刃のように明確だった。「私が彼を“ここ”に繋ぎ止める。彼は人間として戻ってこられる」


 ガランが舌打ちし、しかし否定はしない。アルマは長く息を吐いた。


「選ぶのは、本人だ。ここに連れてきたのは、そのためだ」



 視線が蓮に集まる。円卓の上で、波形が脈動し続ける。街の心拍のように。蓮は唇を開いたが、声が出ない。喉の奥で赤黒い熱が膨らみ、言葉を焼く。


 ――選べ。我を受け入れれば、裂け目は閉じる。誰も死なない。おまえも消えない。ただ形を変えるだけだ。


 甘い。理屈が筋道立っているぶん、なお悪い。蓮は拳を膝に押し当て、骨の痛みで現在を縫い止める。


「……俺は、人間として戻れるのか」


 問いはユリスへ向いた。彼女は頷く。迷いなく。「戻す。何度でも」


 セラが顔を上げ、かすれ声で続けた。「私も糸を張る。寿命なんて、もっと削れる」


「削らなくていい」蓮は首を振る。その瞬間、天井の煤がぱらりと落ちた。微かな振動。亀裂が、また広がる。


 アルマが結論を告げる。「二案を提示する。ひとつ、蓮を柱に固定する——高確率で街を保つが、個としての継続は危うい。もうひとつ、ユリスの係留を前提に、蓮が主系を引き受けた上で“人として戻る”ことを試みる——成功率は未知数。選べ」


 蓮は立ち上がる。脚は震えていない。震えているのは、胸の内側の何かだ。ユリスの指がそっと袖をつまみ、離れた。


「俺は——」


 言葉は短かった。だが、その一音で、円卓の空気が変わった。イオが素早く符を展開し、セラが立ち上がる。ガランが巨刃の柄に手を置き、アルマが目を閉じる。


 蓮は続けた。「係留を選ぶ。俺は戻る。何度でも。それができないなら、その時は——俺を切れ」


 アルマの瞳が僅かに揺れた。だが頷いた。「了解」


 ユリスは一歩、蓮に近づく。「約束。私が“ここ”を渡す。あなたが迷ったら、何度でも引き戻す」


 囁きが、潮騒のように強まる。空の薄膜が遠雷のように震えた。封鎖鐘が鳴る。会議室の空気がかすかに赤くなる。


 蓮は深く息を吸い、胸の扉を内側から開けた。赤黒い熱が流れ込み、同時にユリスの手が肩に触れる。冷たい。確かな重み。ふたり分の心拍が、ひとつの拍に重なる。


 ——選んだな。我が子。


 その呼びかけに、蓮ははっきりと首を横に振った。


「俺は、人間だ」


 境界がきしみ、床石が微かに浮いた。決戦の時刻が、街の上に落ちてきた。

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