第29話 境界の選択
### 第29話「境界の選択」
竜の喉が断たれた後も、空は完全には閉じなかった。赤黒い薄膜が高空で痙攣し、ときおり糸のような亀裂が走る。〈レグナス〉の表は笑い合い、露店の輪は広がっていく。だが境界守の耳には、耳鳴りのような低い振動が止まなかった。
篠森蓮は診療詰所の簡易寝台で目を覚ました。体は重く、喉に熱い砂を詰められたような渇きがある。カーテン越しにユリスの影が揺れ、椅子の背にもたれて眠っていた。額にかかる前髪、指先に残る擦り傷。誰かのために走り続けてきた日々が、そこに縮んで見えた。
――選べ。
囁きが胸骨の裏で鳴った。視界がわずかに二重に揺れる。蓮は上体を起こし、声にならない息を吐く。
「……俺は、どちらに」
カーテンが開き、アルマが入ってきた。灰金の瞳は疲労を隠さず、しかし揺れない。
「歩けるか。会議だ」
*
本拠の地下会議室。壁の燭が短くなり、煤が天井に花のような影を作っている。円卓の上には街区図と波形の記録結晶。イオが淡々と読み上げる。
「境界面の疲労は臨界域。修復密度の上昇により、齟齬の自覚者は四割弱。封鎖の持続は困難。……決定が必要です」
ガランが短く唸り、拳を握った。「決定とは、あいつを——」
アルマが言葉を継いだ。「蓮を“柱”にする案だ。主系に近い波を逆位相で固定し、裂け目を縫い止める。成功すれば街は保つ。代償は……」
「彼の人としての連続が、そこで切れる」イオが言った。声音は平板だが、視線は逃げ場を探していた。
「待って!」
ユリスが立ち上がる。椅子が背で跳ね、鈍い音を立てた。「そんなの、解決じゃない。犠牲を鎖にして街を支えるのは、もう終わりにするって、私たち……」
「終わっていない」アルマは静かに遮った。「秩序は誰かの代償でしか保てない。少なくとも今は」
沈黙が落ちる。セラは膝に両手を組み、祈るように下を向いている。頬は透けるほど白い。昨夜からほとんど目を閉じていないのだろう。
イオが結晶を押し出す。「篠森蓮の波動は、主系に同期しやすい。しかし同時に、外れもしやすい。係留点があれば——」
「係留点は、私がやる」
ユリスの言葉は刃のように明確だった。「私が彼を“ここ”に繋ぎ止める。彼は人間として戻ってこられる」
ガランが舌打ちし、しかし否定はしない。アルマは長く息を吐いた。
「選ぶのは、本人だ。ここに連れてきたのは、そのためだ」
*
視線が蓮に集まる。円卓の上で、波形が脈動し続ける。街の心拍のように。蓮は唇を開いたが、声が出ない。喉の奥で赤黒い熱が膨らみ、言葉を焼く。
――選べ。我を受け入れれば、裂け目は閉じる。誰も死なない。おまえも消えない。ただ形を変えるだけだ。
甘い。理屈が筋道立っているぶん、なお悪い。蓮は拳を膝に押し当て、骨の痛みで現在を縫い止める。
「……俺は、人間として戻れるのか」
問いはユリスへ向いた。彼女は頷く。迷いなく。「戻す。何度でも」
セラが顔を上げ、かすれ声で続けた。「私も糸を張る。寿命なんて、もっと削れる」
「削らなくていい」蓮は首を振る。その瞬間、天井の煤がぱらりと落ちた。微かな振動。亀裂が、また広がる。
アルマが結論を告げる。「二案を提示する。ひとつ、蓮を柱に固定する——高確率で街を保つが、個としての継続は危うい。もうひとつ、ユリスの係留を前提に、蓮が主系を引き受けた上で“人として戻る”ことを試みる——成功率は未知数。選べ」
蓮は立ち上がる。脚は震えていない。震えているのは、胸の内側の何かだ。ユリスの指がそっと袖をつまみ、離れた。
「俺は——」
言葉は短かった。だが、その一音で、円卓の空気が変わった。イオが素早く符を展開し、セラが立ち上がる。ガランが巨刃の柄に手を置き、アルマが目を閉じる。
蓮は続けた。「係留を選ぶ。俺は戻る。何度でも。それができないなら、その時は——俺を切れ」
アルマの瞳が僅かに揺れた。だが頷いた。「了解」
ユリスは一歩、蓮に近づく。「約束。私が“ここ”を渡す。あなたが迷ったら、何度でも引き戻す」
囁きが、潮騒のように強まる。空の薄膜が遠雷のように震えた。封鎖鐘が鳴る。会議室の空気がかすかに赤くなる。
蓮は深く息を吸い、胸の扉を内側から開けた。赤黒い熱が流れ込み、同時にユリスの手が肩に触れる。冷たい。確かな重み。ふたり分の心拍が、ひとつの拍に重なる。
——選んだな。我が子。
その呼びかけに、蓮ははっきりと首を横に振った。
「俺は、人間だ」
境界がきしみ、床石が微かに浮いた。決戦の時刻が、街の上に落ちてきた。
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