第4話 熊の跡
里に近い沢沿いで、黒々とした足跡が見つかった。
まだ湿った泥に残るのは、大きな前足と五本の爪痕。
「……クマだな」
マタギのミツは身を屈めて跡を確かめた。
爪の深さからして、まだ若い成獣。
「夜のうちに降りてきた。腹を空かせてんだろう」
山師シゲルは、周囲を見渡した。
畑の脇には掘り返された跡。里芋の茎が折られ、食い荒らされた痕が生々しい。
「今年はブナもナラも実が少ねぇ。山で食いもんが足りなきゃ、里へ出るしかねぇ」
「熊に罪はねぇ。けど……人に害が出りゃ、駆除だ」
ミツは背の猟銃を無意識に握った。
狩猟免許を持ち、熊を撃つ資格もある。だが引き金を引くたび、胸の奥に重い石が沈む。
熊は本来、臆病で人を避ける。だが飢えれば畑を荒らし、時に人を襲う。
そのたびに「危険個体」として命を絶たれる。
「去年も村の裏山で一頭落としたな……」
シゲルは低く言った。
「解体しながら思ったよ。こいつはただ生きようとしてただけだって」
山を歩けば、クマの痕跡はいたるところに残る。
ミズナラの幹には爪痕。立ち上がって背を伸ばし、自分の存在を示した印。
倒木には裏返された石。アリを探した跡だ。
山ブドウの蔓は引きちぎられ、果実は跡形もない。
「本来なら、これが山の営みなんだよな」
ミツは呟いた。
「木の実を食って、フンで種を運んで……森を広げてきたのに」
シゲルは黙って斧を握り直した。
「けど今は、人とぶつかるばかりだ。……森が痩せりゃ、熊も痩せる」
二人は再び足跡を追った。
沢の先、藪を抜けると、黒い影がひとつ立ち上がった。
距離はまだある。熊は二人を見やると、鼻を鳴らして山の奥へ駆け込んだ。
ミツは銃を下ろしたまま、小さく息を吐いた。
「まだ撃たずに済んだ」
「だが次に里へ降りりゃ、もう逃げられねぇ」
静かな風が吹き、森の奥に熊の気配が消えていった。
二人は立ち尽くす。
山を守るはずの獣が、山の衰えとともに人に駆除されていく現実。
ミツは拳を握り、低く呟いた。
「……山が死ねば、熊も人も共倒れだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます