第9章 - 囁く城
翌朝、村に穏やかな朝が訪れた。
草の上にはまだ朝霧が残り、エリアナはうっすらとした光の中で目を覚ました。
体中がだるく、まるで悪夢の中で電流でも流されたかのようだ。
宿の外からは鶏の鳴き声が響き、静寂を破る。だが彼女を本当に目覚めさせたのは――モップだった。
壁にもたれかかったそのモップは、淡い光を放ちながら、まるで呼吸しているかのように脈動していた。
エリアナは目をこすり、ぼそりと呟く。
「……うん、もう完全に掃除道具が怖い存在になったわ。」
「おはようございます、〈光の守護者〉。」
リラの声が窓辺から聞こえる。
彼女は小さなリュックを整え、朝日を受けた銀髪が淡く輝いていた。
「出発の時間です。」
「出発!? ちょっと待って、昨日村を救ったばっかりよ? まだ朝ご飯も食べてないのに!」
リラは振り返らず、落ち着いた声で言った。
「光は止まらない。北の方角――ヴォーセン城で“何か”が動き始めている。」
エリアナは虚ろな目で彼女を見つめる。
「お城って……もしかして、あのホラー映画みたいな? クモの巣だらけで、ドアがギィィって鳴って、幽霊が『うらめしや〜』って出てくる感じ?」
「だいたい合ってるわね。」
「最高ね。私はモップしか持ってないのに。」
***
朝霧がまだ薄く漂う中、二人は北へと歩き出した。
石畳の道が森を抜け、風に揺れる木々が囁くような音を立てる。
エリアナは肩をすくめながら言った。
「ねぇ、本当にこの道で合ってるの? 同じ石、三回見た気がするんだけど。」
「それは同じ石じゃない。」
リラは振り向かずに言う。
「あれは、“後戻りするな”という警告の石。」
「ちょ、ちょっと!? それ今さら言う!?」
エリアナの背中でモップが微かに震えた。
頭の中に、囁くような声が響く。
――恐れるな、暗き道を。光は常にその先にある。
「……え、今の……誰!?」
彼女はモップを凝視する。
「まさか喋った!? 私、幻聴じゃないよね!?」
「何て言ってた?」
リラが静かに問う。
「えっと……“進め”って……。ねぇ、まさか――」
「知ってるわ。」
リラは微笑みもせずに言った。
「私はテレパシーで感じ取れる。たとえそのモップが無機物でも、声は届く。」
「……うん、もう私、絶対に病院紹介してもらう。」
***
長い道のりの果て、夕暮れが近づくころ――。
二人は巨大な丘の麓にたどり着いた。
その頂には、崩れかけた黒い城――ヴォーセン城が、不気味に影を落としていた。
折れた塔、絡みつく黒い蔦、重く淀んだ空気。
まるで“恐怖”そのものが形を取ったかのようだった。
「これが……ヴォーセン城?」
エリアナが顔をしかめる。
「最高におしゃれね。『食われそうな城』ってテーマ?」
リラは剣を抜いた。
「気を抜かないで。この場所……生きているわ。」
彼女たちが古びた鉄の門をくぐると、長い軋む音が響いた。
中は凍りつくように冷たく、壁にかけられた絵画の瞳が二人を見つめているようだった。
そして、広間の中央――誰もいないのに、蝋燭が一斉に灯った。
「お掃除の精霊が出たとか言わないでよ……」
エリアナが身をすくめる。
リラは無言で中央の石の祭壇へ向かい、指先で埃を払った。
「ここはかつて〈光の守護者〉たちの要塞だった。
けれど“大戦”の後、誰も戻らなかった。残ったのは……影だけ。」
壁のレリーフには、光る杖を掲げる白衣の女性が彫られていた。
二つの世界の狭間に立ち、光を放つ姿。
「……私?」
エリアナが呟く。
「違うわ。彼女は前の守護者――エルサラ。
そして、その杖は……君のモップにそっくり。」
「冗談でしょ!?」
「冗談じゃない。
その力は、異世界の者――つまり“君”に受け継がれた。」
その瞬間、モップが強く輝き出した。
白い光がレリーフに当たると、壁が音を立てて開き、奥に通じる秘密の通路が現れた。
二人は顔を見合わせた。
「まさか……ここに入るの?」
「他に道はない。」
リラは手に小さな魔法の光を灯し、歩き出した。
エリアナは深く息を吸う。
「……もし私が死んだら、モップと一緒に葬ってね。」
***
通路は湿って狭く、青い光の結晶が壁を照らしていた。
奥に進むほど、囁き声が重なり合う。
無数の人々が祈り、泣いているような、遠い声。
エリアナはモップを抱きしめる。
「リラ、ここの“雰囲気BGM”マジでホラーよ。」
「それは古き守護者たちの残響。
光を呼ぶ者を、ずっと待っていたの。」
その時、暗闇の中から巨大な影が現れた。
ひび割れた顔、青く光る虚ろな瞳――。
「ひぃぃっ! バグったポリゴン!? これ、ゲームのバグじゃない!?」
「下がって!」
リラが叫ぶ。
「それは〈霧の残滓〉――消え残った闇の魂よ!」
影が呻くように言葉を吐く。
「かえせ……われらの……ひかりを……」
エリアナはモップを握りしめた。
「いや、これレンタル品じゃないからぁぁぁ!!」
光が弾け、影を撃つ。だが分裂したそれらが彼女たちを取り囲む。
「最悪! 分裂型ボス!?」
「集中して!」リラが叫ぶ。
「床の印に向けて光を放って!」
床には淡く光る魔法陣。
エリアナはモップを構え、叫んだ。
「消え去れ闇ィィィ!! 世界を清め、心を磨け――“ぜんぶピカピカにしてやるぅぅぅ!!!”」
白光が爆ぜ、空間全体を包み込む。
影たちの叫びが消え、静寂が戻った。
***
部屋の中央に、小さな光の球が浮かんでいた。
それは鼓動のように脈打ち、柔らかな輝きを放っている。
「これは……古き守護者の記憶の核。」
リラが言う。
「ってことは……触れなきゃダメなやつ?」
「ええ。」
「どうしていつも“簡単に掃くだけの任務”がないのよ……」
エリアナは嘆きながら手を伸ばした。
一瞬にして視界が変わり、幻が広がる。
白い衣の女性が塔の頂で光を掲げ、
二つの世界が衝突するのを防ごうとしていた――。
次の瞬間、光は砕け、闇が世界を覆う。
エリアナは息を呑み、手を引いた。
光球は消えたが、モップが以前よりも強く輝いている。
「今のは……過去の記憶?」
「そう。エルサラの記憶。
それが、君を導く鍵になる。」
エリアナはモップを見下ろす。
「……要するに、もう完全に“パートタイムじゃない”ヒーローってことね。」
リラは小さく笑った。
「あなたは最初の光を灯した瞬間から、もう守護者だったのよ。」
二人が静かに通路を出ると、
背後の城はゆっくりと暗闇に沈み、
まるで永い眠りにつくかのように静まった。
だが、門を出た瞬間――
エリアナは何かの気配を感じて足を止めた。
暗がりの中、赤い双眸が光り、じっと彼女を見つめている。
やがて、その姿は霧のように消えた。
「……今の、見た?」
「何を?」リラが振り返る。
エリアナはモップを握り締めた。
「ううん……でも、たぶん――何かが、ついてきた。」
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