第8章 ― 闇の中の光

その咆哮が空気を震わせ、エリアナは身震いした。東の畑の方角から、黒い霧が渦を巻いて押し寄せてくる。腐った肉が焼けるような悪臭を運びながら。


村人たちは慌てて家の中へ走り込み、扉や窓をしっかり閉めた。数人の男たちは鉄のフォークや木の斧、古びた弓などの簡素な武器を手に取ったが、その顔は恐怖で青ざめている。


「エリアナ!」

リラの鋭い声が彼女の意識を突き刺した。

「私の後ろにいなさい!」


エリアナは震え、手に持ったモップがカタカタと揺れた。

「後ろって……できれば村の後ろまで逃げたいんだけど!?」


退こうとした瞬間、霧の中から黒い影が現れた。

それは背の高い狼のような姿をした怪物。

全身を黒い棘が覆い、そこから煙が立ち上っている。真紅の目が光り、口からは鋭い牙がのぞく。滴る唾液が地面に落ちるたび、そこは黒く焼け焦げた。


エリアナの目が見開かれた。

「な、なにあれ……失敗したゴジラのコスプレ?」


「冗談言ってる場合じゃない!」

リラは跳び出し、紫色の光を放つ剣を抜いた。


怪物が咆哮し、襲いかかる。

リラはそれを受け止め、火花のような光が弾けた。

彼女の動きは優雅で速く、まるで舞うようだった。


その間、エリアナは立ち尽くしていた。

手に持ったモップが次第に眩く光り始める。

白い光が広がり、黒い霧を押し返していく。


「何をしてるの!?」

リラが叫ぶ。


「わ、私!? 私は清掃員だよ!? 悪魔ハンターじゃない!!」


「その杖――モップが反応してる! 使ってみて!」


エリアナはモップを見つめた。

光がさらに強くなり、熱が手のひらに伝わる。

心臓が早鐘のように打った。


「……ま、まさか……今こそ私が“魔法少女清掃員”に……!?」


震える手でモップを構え、アニメのヒーローのようなポーズをとるが、明らかにぎこちない。


怪物が方向を変え、彼女に狙いを定めた。

エリアナは後ずさりながら悲鳴を上げる。

「や、やめてぇ! まだ奨学金の返済終わってないのよぉぉぉ!!」


怪物が跳びかかる。


――WHUUMMM! ザシュッッ!


モップが閃光を放ち、爆発のような光が周囲を包んだ。

怪物は吹き飛ばされ、苦痛の咆哮を上げる。

黒い霧が焼かれ、消えていった。


エリアナは呆然と立ち尽くした。

「わ、私……やったの?」


戦いの中で、リラはかすかに微笑んだ。

「そう。やっと理解し始めたわね。」


――初めての戦い。


しかし怪物はまだ倒れていなかった。

ひび割れた体から黒煙を上げながら、再び立ち上がる。


リラは必死に攻撃を防ぎつつ叫ぶ。

「エリアナ! 助けて! 光を奴の心臓に向けて!」


「えっ!? どこにあるのそれ!?」


「胸の中心よ!」


エリアナは半泣きで頷き、走り出した。

「この焦げ狼めぇぇ! 喰らえぇぇ! モップ・オブ・ホーリィィィーーッ!!」


――ズガァァァンッ!


眩い光がモップから放たれ、怪物の胸を貫いた。

絶叫が響き渡り、黒い体は砕け散って煙となり、風に消えた。


エリアナは膝をつき、息を荒げた。

「まさか……異世界モンスターを掃除する日が来るなんて……」


リラは彼女の肩に手を置いた。

「違うわ。あなたは“守った”のよ。」


エリアナはモップを見下ろした。

光は消え、ただの掃除道具に戻っている。

それでも、手のひらにはまだ温もりが残っていた。


「……誇るべきか、怖がるべきか、わからない……」


──戦いの後。


村人たちは家から出てきて、驚きと感謝の目で彼女を見つめた。

子供たちは歓声を上げる。


「お姉ちゃん、すごい!」「光るモップかっこいい!」


エリアナは顔を手で覆った。

「お願いだから注目しないでぇ……!」


村の長老が近づき、深く頭を下げた。

「光の守護者よ、感謝します。あなたは村を救ってくれた。」


「ちょ、ちょっと待って! 私はただの……迷い込んだ清掃員なんですってば!」


だが、誰も彼女の言葉を聞いていなかった。

歓声が上がり、何人かはモップに触れようと手を伸ばす。

エリアナはさらに混乱した。


リラが隣で静かに微笑む。

「見た? この世界は、あなたを待っていたの。」


「いやだぁ! 私、主人公とか無理! ただ静かに暮らして、家賃払って、ドラマ見て、安眠したいだけなのぉぉ!」


だが心の奥では、わかっていた。

もう、後戻りはできない。


──夜、宿屋にて。


ベッドに横たわるエリアナの体は、まだ震えていた。

モップは壁にもたれているが、その影は脈打つように見える。


「なんで……私なの?」

「世界中に人がいるのに……どうして私が選ばれたの……?」


頭の中で、あの声が再び響いた。

「この世界とあの世界の“境界”を清められるのは……あなたしかいない。」


エリアナは枕で耳を塞いだ。

「聞きたくない! もう寝かせてぇぇ!」


しかし、心の奥底では理解していた。

あのモップはただの掃除道具ではない。

それは“鍵”。


そしてその夜、エリアナはもう“闇の廊下”の夢を見なかった。

代わりに見たのは、二つの世界が交わり、今にも崩れ落ちそうな光景だった。

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