磯の悲劇と、賢者の絶叫

朝食が終わり、俺たちが食器を片付け終わった頃。彩良が、パンッ、と手を叩いた。


「よーし、今日は2日目! ひと遊びしようよ! 海!」


「泳ぐのか?」 大地が、待ってましたとばかりに身を乗り出す。


「うーん、泳ぐのもいいけど、あっちの岩場、面白そうじゃない!? 探検しようよ!」 彩良が、ペンションの窓から見える、ゴツゴツとした岩場を指さした。


その言葉に、栞先輩の顔が、一瞬だけ、凍りついたのを、俺は見逃さなかった。


彼女の思考が、昨夜の恐怖でフラッシュバックしているのが、手に取るように分かった。 だが、彩良と大地の「行こうぜ!」という、圧倒的にポジティブな空気の中、彼女は「行かない」という、たった一言を、どうしても言い出せないようだった。


「……ええ。そ、そうですね。探検、楽しそうです」 彼女の引きつった笑顔に、俺以外の誰も、気づいてはいなかった。


◇◇◇


ペンションから数分歩いた場所にある、入り江の岩場。 そこは、俺たちの格好の遊び場となった。


「うおっしゃー! 誰が一番でっかいカニ見つけるか、勝負だ、彩良!」


「負けないし! 見て、ヤドカリ超かわいい!」 彩良と大地は、出会ってまだ一日とは思えないほどの結束力で、童心に返って、タイドプールを覗き込んでは、はしゃぎ回っている。


響は、彼らの喧騒から離れた場所で、マイクを構えていた。波が、岩の隙間に吸い込まれては、ごぼっ、と独特の音を立てて吐き出される。彼は、その複雑な音響に夢中になり、録音に没頭していた。


詩織は、波打ち際の、静かな潮だまりの前に、しゃがみ込んでいた。中には、取り残された小さな青い魚や、赤く美しいイソギンチャクが、まるでミニチュアの庭園のように、息づいている。彼女は、その繊細な美しさに感動し、静かにスケッチブックを広げていた。


俺は、そんな仲間たちの姿を、少し離れた、乾いた岩の上から眺めていた。 カメラを構えるでもなく、ただ、腕を組んで。 夏の、強い日差し。潮の匂い。彼らの、楽しそうな声。


その時だった。


「……詩織さーん、そっち、何がいますかー?」


栞先輩が、俺たちの輪に入ろうと、意を決して、岩場へと足を踏み入れた。 だが、その表情は、明らかに強張っていた。彼女は、昨夜のトラウマから、岩陰や、石の隙間を、異常なまでに警戒しながら、恐る恐る歩いている。


「あ、栞先輩! こっち、小さなお魚が……」


詩織が、笑顔で手招きする。栞先輩が、それに答えようと、一歩、踏み出した。 しかし、ぬるりとした海藻が、びっしりと生えた岩に、足を滑らせてしまう。


「きゃっ……!」


彼女は、バランスを崩し、咄嗟に、一番近くにあった岩に、思いきり手をついた。 その瞬間。 彼女が手をついた岩の隙間から、黒く、光沢のある、無数の何かが、ワサワサワサワサッ、と這い出してきた。 フナムシだ。


栞先輩の思考が、完全に停止した。 彼女は、自分の手についた、数匹のフナムシを、スローモーションのように見つめている。 そして、次の瞬間。 彼女の、この世の終わりを告げるかのような絶叫が、夏の静かな入り江に、響き渡った。


「いやあああああああああっ!! むりむりむり! なんでいるの!? 助けて! 凪くん! 大地くん! 誰かっ!」


栞先輩は、パニック状態で、手を振り払いながら、後ずさる。 その、尋常ではない悲鳴に、最も近くにいた大地が、ヒーローのように駆けつけた。


「危ねえ、先輩!」 だが、パニック状態の栞先輩は、迫ってくる大地に予想外の力でしがみついた。


「うおっ!?」 大地の体勢が、大きく崩れる。 俺も、二人がよろめくのを見て、即座にうごく。


「夏川、足元! そこは海藻が……!」


しかし、時すでに遅し。 栞先輩の全体重がかかった大地は、足元の、最も滑りやすい海藻の群生地帯に、見事に足を滑らせた。 盛大に転倒。その際、大地は、生き残るための最後の本能で、とっさに、一番近くにあった俺の足首を、強く、掴んでしまった。


結果。 栞先輩が大地を押し倒し、大地が俺を巻き込む形で、俺たち三人は、美しい放物線を描いて、びしょ濡れの岩場に、折り重なるように倒れ込んだ。 ビシャッ!という、情けない水音と共に。


一瞬の静寂。 俺の視界は、海水で完全に遮られている。 その静寂を破ったのは、彩良の、息も絶え絶えな、爆笑の声だった。


「ぷっ……あ、あはは! あははははははは! なにそれ! なにやってんの、三人とも! 超ウケる! あー、お腹痛い!」


彼女は、岩の上で、腹を抱えて、笑い転げている。 ふと、視線の先に、響が立っていた。彼は、その惨状に、冷めた目でこちらを見て言葉を発する。


「……なるほど。人間は、極度のパニック状態において、ドミノ倒しと類似の現象を引き起こすのか。」


「……凪くん、大丈夫…?」


頭上から、心配そうな、詩織の声がした。 俺は、びしょ濡れの岩の上で、まだ俺の足首を掴んだままの大地を下敷きにしながら、天を仰いでいた。水しぶきで顔は濡れ、視界は最悪だ。 俺は、詩織が差し出すタオルを、無言で受け取った。


(……何やってんだ、俺は)

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