第10話SecretGarden
カフェ「SecretGarden」の営業を終えると、桜庭は看板を店先から引き上げ、錆の浮いたシャッターをゆっくりと下ろした。
金属の軋む音が夜に吸い込まれ、途端に町のざわめきが遠ざかる。
夜風が足もとをかすめ、思っていた以上に冷たさを帯びていた。
潮の気配が混じり、秋の近さを思わせる。
車に乗り込もうとドアノブに手をかけたとき、桜庭の視線はふと路地の向こうに吸い寄せられた。
街灯に照らされた公園のベンチに、人影がある。
背を少し丸め、缶コーヒーを両手で包むようにしている男――裏川だった。
温かさを確かめるように缶を口に運び、また膝の上で転がしている。
桜庭はそっと車のドアを閉め、歩みを静かにそちらへ向けた。
アスファルトに靴音が軽く響き、夜気に溶ける。
「……こんばんは。こんな時間に、どうしたんですか?」
声をかけると、裏川は少し驚いたように顔を上げ、それから困ったような笑みを見せた。
「特に理由はないんですけど……なんとなく、帰りたくないなって。そういう時、ありません?」
吐息に乗った言葉が、湯気のようにかすかに漂った。
彼の表情は穏やかに見えたが、その奥に深い疲れが潜んでいるのがわかる。
桜庭は思わず、数日前に耳にした噂を思い出していた。
裏川の妻と、不和野という男。
気づいているのか、いないのか。
ただ、家庭の中があまり順調ではないことは、目の前の姿だけでも伝わってきた。
桜庭は少し迷ったあと、口を開いた。
「……よかったら、うちに寄っていきませんか?焚き火でもしながら、少しだけ」
一瞬、裏川の目に驚きが走った。
だがそれはすぐに和らぎ、微かな安堵を含んだ頷きへと変わった。
「……じゃあ、少しだけ」
二人は桜庭の家の裏庭へ戻り、小さな焚き火台をテラスに置いた。
火種にマッチを近づけると、乾いた薪がぱちりと音を立て、橙色の火がゆっくりと立ち上がる。
夜の空気に炎の匂いが混じり、どこか懐かしい感覚を呼び覚ます。
「こないだのマシュマロ、余ってるんですけど。焼いてみます?」
桜庭が笑みを含んで差し出すと、裏川は小さく吹き出した。
「……キャンプみたいですね」
二人は串にマシュマロを刺し、炎の上にかざした。
白い塊はじわじわと膨らみ、表面がこんがりと色づいていく。
甘い香りが夜気に溶け、遠い記憶を呼び覚ますようだった。
桜庭はキッチンから持ってきたマグカップに、ミルクをたっぷり注いだカフェオレを淹れ、裏川へ手渡した。
温かな陶器を包む両手に、しばし言葉はなく、ただ湯気がふたりの間をやわらかく満たした。
「……こういう時間、久しぶりです」
マシュマロを口に運びながら、裏川はぽつりとこぼした。
「何も考えずに、ただ火を見てるだけって。なんていうか、童心にかえった気分かも」
炎の光に照らされたその横顔は、どこか幼さを宿し、かすかな哀しみも同時に映していた。
「僕も、好きなんです。焚き火って、なんか……落ち着きますよね」
桜庭は自分の言葉を確かめるように、炎を見つめながら言った。
その足もとでは、バステトがテラスの隅に丸まり、ゆらめく火をじっと見つめていた。
炎に合わせて猫の瞳がわずかに揺れ、その静けさが夜をいっそう深くする。
夜はさらに深まり、空には星がひとつ、またひとつと増えていく。
炎の赤が二人の影を伸ばし、ゆっくりと揺らめかせていた。
その影の揺れは、どこか互いの胸に潜む揺らぎと重なって見えるのだった。
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