第9話SecretGarden

夜の気配が濃くなり、港町の空は群青に沈みつつあった。

星々はにじむように輪郭を曖昧にし、街灯の光さえどこか冷たく揺れている。

海の方角からは潮の匂いを含んだ風が流れ込み、裏庭のハーブをさらさらと揺らしていた。

季節の割には肌寒く、シャツ一枚では心もとなく感じられるほどだった。


桜庭はキッチンで、バステトのために餌を用意していた。

陶器の小皿にカリカリを落とす軽やかな音が、夜の静けさにかすかに響く。

いつもなら、その音を合図に小さな足音がすぐ駆け寄ってくるはずだった。

しかし、今夜は足元に黒猫の姿がない。

耳を澄ましても、家のどこからも鳴き声は聞こえなかった。


「……バステト?」

半ば自分に言い聞かせるように名前を呼んだが、応えはなかった。

胸の奥に不安の影が落ちる。

庭に出て探してみても、植え込みの陰にも、縁側の下にも気配はない。


桜庭は落ち着かない心を抱え、玄関を出た。

夜風が頬を撫で、肌に冷たさが沁みる。

隣家へと視線を向けると、一階の庭の窓が静かに開く気配があった。

その向こうに現れたのは裏川だった。

腕に抱かれているのは、ぐっすりと眠りこんでいるバステト。

小さな体は安心しきったように丸まり、喉を小さく鳴らしている。


「……ごめんなさい。勝手に来ちゃったみたいで」

裏川は少し申し訳なさそうに、けれど優しい手つきで猫の背を撫でていた。

その仕草が自然で、桜庭は胸の中の緊張がふっと解けていくのを感じた。


「いえ。よかったです。……戻らないから、ちょっと心配で」

安堵が声ににじみ、思わず微笑みがこぼれた。


裏川は小さく頷き、庭の柵をゆっくり越えてこちらに歩み寄った。

「……少しだけ、そばにいてくれてました」

その言葉には、猫だけではなく、自分自身の孤独をも包む響きがあった。


桜庭は胸の奥で何かが揺れたが、それを口にせず、代わりにテラスの椅子を指さした。

「よかったら、ココアでも。ちょっと冷えてきたので」


裏川はためらいがちに、しかし素直に頷いた。

バステトを膝に乗せたまま、椅子に腰を下ろす。

その姿が不思議と自然で、まるでそこが定位置であるかのように見えた。


桜庭はキッチンへ戻り、熱いミルクにココアパウダーを溶かし、白いマシュマロを浮かべた。

甘い香りと共に湯気が立ちのぼり、夜気に触れて柔らかく広がっていく。

その香りに包まれながら、二人の間に張り詰めていた冷たさが少しずつほどけていった。


マグカップを手渡すと、裏川は膝の上で丸くなったバステトを見下ろし、静かに言った。

「動物って、不思議ですよね」


桜庭は隣に腰を下ろし、自分のカップを両手で包み込む。

「落ち込んでる時や悲しい時、何も言わずにそばに来てくれる。……ただいてくれるだけで、救われる気がするんです」


裏川は短く頷き、猫の背に掌を重ねた。

「……ほんとに、そうですね」

その声は小さく、夜に溶け込むほどに静かだった。


桜庭はふと、数日前に耳にした噂を思い出した。

裏川の奥さんと、不和野という男。

無邪気に語られていたおばさまたちの声。

その影が目の前の人を覆っているのかもしれない。

けれど、今この場で確かに目にしているのは、ただ膝に猫を抱きしめる静かな隣人の姿だけだった。


マシュマロがゆっくりと溶けていくように、沈黙もまた温度を帯び、柔らかく変わっていく。

港町の夜気に溶けていく甘い香りは、灯りのように小さな温もりをふたりの間に漂わせていた。


バステトは裏川の膝の上で、穏やかな寝息を立て続けている。

その小さな呼吸の規則正しさが、まるで夜そのものを整えているかのようだった。

二人はただそれを聞きながら、静かに時間を共有していた。

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