第3話 ……また、おねーさんの家に行っていい?

 「イケメンお持ち帰り!? しかも10歳年下!? 別れ際にディープキ……」

 まゆねえの言葉を、私は慌てて両手で塞いだ。


 「しーっ! 声が大きい!!」

 休日の夕方のファミレス。

 親子連れや学生グループで賑わう中、場違いなフレーズが響き渡ってしまい、私は顔から火が出そうだった。


 「……あんが……」

 グラスを持つ手を震わせ、まゆ姉が涙ぐむ。

 「あの奥手の杏が、まさか男を家に連れ込むなんて……!」


 「それってドラマみたいな展開すぎません!? しかも10歳下の美形って……」

 菜月なつきは興奮気味に身を乗り出し、頬を赤くして手を合わせる。

 「10歳差で年下攻め……尊いです……!」


 その日の夕方、私はふたりの友人を緊急招集していた。

 頼れる1歳年上のまゆ姉と、大学時代の文系サークルの後輩で、おっとり腐女子の菜月。

 独身仲間はもう数えるほどしか残っていない。

 

 「ち、違うから! 本当になにもしてないんだから!」

 必死で否定する私に、ふたりの視線が突き刺さる。


 (うぅ……ほんと、このふたりに話すと絶対大げさになるんだから……)


 「でもさ……杏って、28のとき以来ずっと恋愛に音沙汰なかったじゃん?」

 まゆ姉がふっと真顔になった。


 胸がちくりと痛む。

 そう——28歳でヒモ彼氏と別れてから、もう6年。


 20代は全部、あの男に捧げてしまった。

 尽くして、支えて、信じて……。

 なのに返ってきたのは、浮気と——私の貯金を持ち逃げして消えたという最悪の結末だった。


 「そうだね。……あれ以来、恋愛なんてもうこりごりで。二次元のほうが裏切らないって思って……」

 言いながら、心の中で思い浮かぶのはブチャ〇ティの笑顔と、岸辺〇伴の鋭い眼差し。

 「わたしの愛は、全部ブチャ〇ティと露〇に注がれたの!」


 菜月がうんうんと力強く頷く。

 「分かります……! ブチャ〇ティは理想の上司、露〇先生は永遠の推し……!」


 「いやいや! そういう話じゃなくて!」

 私は頭を抱える。

 (なんでこうなるの……? 相談したのに、余計に混乱してる……!)


 「でもさ……てっきり2人からは、ガード甘い!って怒られると思ったのに、どっちかというと……」

 私は視線を泳がせながら呟いた。

 「いいぞ、もっとやれ! って空気感じゃない?」


 まゆ姉がグラスを置き、少し驚いたように首を傾げた。

 「いやいや。杏からそういう刺激的な話が出るなんて思わなかったからねえ」

 それから目を細めて、冷静に言葉を継いだ。

 「そのあおいって子、子犬の皮をかぶった肉食獣でしょ」


 「……っ! やっぱりそうだよねぇぇ!!」

 思わず身を乗り出してしまう私。

 (私だけの勘違いじゃなかったんだ……!)


 まゆ姉はため息まじりに笑った。

 「間違いなく手練れだよ。女心を知り尽くしてる。……杏には、ちょっと難しい相手かも」


 「遊びって割り切れたらいいんだけど……杏は一度スイッチ入っちゃったら本気でのめり込むタイプでしょ。

 相手はまだ結婚なんて一ミリも考えてない若者だろうし、ハマったら——完全にいきおくれだよ」


 「ゥぐっ……ごもっとも……」

 痛いところを突かれて、私は思わずうめいた。

 

 菜月も頷き、目をギラつかせるように言った。

 「絶対モテますよねえ。顔よし、年下、ギャップあり……」

 少し間を置いて、冷静に言葉を重ねる。

 「……でも沼ると危険ですね」


 (やっぱりそうだよね……)

 私は胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。

 (もうシャツを返したら、二度とあの店には行かない方がいいかも……)


 でも。

 あのキスの感触を思い出した瞬間、体が熱を帯びる。

 (……忘れられるわけ、ないじゃん……)


 頭では距離を置くべきだと分かっているのに。

 次に会って、彼の顔を見ただけで——きっと平静じゃいられなくなる……!!


 ……そう思いながら五日間、うじうじ悩み続けた。


 距離をおかないといけない。そう思えば思うほどに、彼の顔が、言葉が、体温が、頭から離れなくなる。

(どうしよう……わたし、あおいのことが好きになってしまったのかもしれない)

 

 悩んだ末に、私ができたのは「シャツを返す」という口実で碧のお店に向かうことだった。


 ドアを開けた瞬間、目が自然と彼を探してしまう。

 カウンターの奥、シェイカーを振る碧がスポットライトを浴びたみたいに輝いて見えた。

 柔らかく揺れた前髪が照明に反射してきらめき、長いまつ毛が影を落とす。

 そして何より——黒のベストに白いシャツ、タイで引き締められたバーテンダーの装いが、すらりとした体にぴたりと合っていて、胸がざわめいた。


(やば……似合いすぎでしょ。かっこいい……! 一目見ただけでドキドキしてる。あの唇に、わたし——……)


 ……けど、現実は容赦なく目に飛び込んでくる。

 ファンっぽい女の子たちに囲まれて笑っている碧。

 (あー……やっぱモテるんだ……)


 私は少し離れた席に腰を下ろした。

 様子を伺っていると、碧がこちらに気づいて歩いてくる。


 「こんばんは。ご注文は?」


 あれ? なんか想像してたよりずっと塩対応。

 『おねーさん!また来てくれたんだ!』ぐらい言ってくれるかと思ってたのに。

 さっきまで他の女の子たちとはあんなに盛り上がってたのに……ちょっとシュンとする。


 適当にカクテルを注文して、結局シャツは渡せなかった。

 (……なのに、また女の子と盛り上がってるし。私、何やってんの)

 ついつい碧のことを目で追ってしまう。


 やがてカクテルを持ってきた碧が、にこっと笑って一言。

 「ゆっくりしていってくださいね」


 社交辞令みたいに聞こえて、やっぱり塩対応じゃね?と思ってしまって。

 胸の中に小さなイライラがつのっていく。


 それでも観察を続けてしまう私の目に映ったのは——。

 華麗にシェイカーを振る碧。

 女の子のリクエストで、得意げに二刀流でシャカシャカと。


 ……が、どう見ても「マラカス芸人」みたいなリズム感。


 思わず、口元がぷるっと緩みかける。

 あれ? かっこいいよりは滑稽な感じ?

 なのに女の子にキャーキャー言われて、まんざらでもない顔してるし。


 

 ………………


 

 (……スンッ)

 (なんか冷めたわ)



 

 会計の時。

 私は伝票を差し出しながら、お札をスッと置いた。

 「おつりはいらないから」


 大人の余裕を装いながら、さらっと言う。

 「ごちそうさま。それと、これ」


 持ってきていたシャツを手渡すと、そのままスタスタと店を後にする。

 背中だけは妙に“大人の余裕”を漂わせて。


 こうして、蛙化現象によりわたしの六年ぶりのガチ恋未遂は終わったのだった。


 ——と、思った矢先。


「おねーさーん!」


 背後から呼び止められる。振り返ると、息を弾ませたあおいがこちらに駆けてきて、お札を差し出していた。


「ああ、おつりはいらないよ」

 できる女を気取って、大人モードでさらりと返す。


「えっと……さっきのお札、千円札でしたよ」


「え?」


 私は足を止め、思わず硬直する。

(……え、五千円札を出したつもりだったのに!? むしろ足りてなかったじゃん!!)


「……まさかの赤字!? うそでしょ、私!!」


 思わず頭を抱える。

 財布から慌てて足りない分を取り出し、差し出す私を見て、碧はくすっと笑った。


「おねーさん、やっぱり面白いね」

 それから、子犬みたいに無邪気な笑みを深める。

「ツケでも良かったんですけど……おねーさんと、少し話したかったから」


 まっすぐ見上げてくる瞳は、まるで子犬が尻尾を振っているみたいで。

 思わず頬が熱くなる。

(……かわいい。ほんと、ずるいくらいに)


 さっきまでのよそよそしい態度が嘘のように、いつもの子犬モードに戻った笑顔。

 その切り替えに、逆にこちらが混乱する。


(な、なんなの……? さっきまでの塩対応は……?)


 そう思った瞬間、碧が「こっち」と私の腕を軽く引いた。

 人通りの少ない路地裏に誘われて、胸がざわつく。


「ごめんね。変に冷たくして」

 少し声を落とし、真剣な表情で言う。


「うちの店、お客さんとの恋愛禁止なんです。

 ……だから、おねーさんの家に行ったこと、マスターにバレたらまずいと思って。あんな態度になっちゃいました」


「えっ……」

 

 さっきの違和感の理由を知って、言葉を失う。

 碧は小さく肩をすくめ、気まずそうに笑みを浮かべた。


「びっくりさせちゃって、ごめんね?」


 一瞬だけ子犬みたいにしょんぼりして見せたあと、ふっと顔を上げて、真っ直ぐに覗き込んでくる。

 瞳がきらりと光り、心臓が跳ねた。


「でも……また、おねーさんの家に行っていい?」


 甘え声と真剣さが入り混じったその一言。

 無邪気なのに、耳元で囁かれたみたいに破壊力抜群で——


(……やばい。ずるい。反則すぎる!!)


 「あ、うん」


 ——思わず口が勝手に返事していた。

(あれれ……? 今、私なんて言った!?)


「やったー!」

 碧はぱっと顔を輝かせ、子犬みたいに無邪気に笑った。

 その笑顔に少し気が緩んだ瞬間、ふいに顔が近づく。


 路地裏の静けさの中、肩先が触れるほどの距離。

 吐息が頬をかすめて、心臓が跳ねる。


「——じゃあ。また行くね」


 低く甘い声。

 艶を含んだ囁きに、全身が震える。


 次の瞬間には、何事もなかったかのように颯爽と店へ戻っていく碧の後ろ姿。

 残された私は、その場に取り残され、胸を押さえて固まるしかなかった。


 大人の余裕を装って築き上げてきた壁は、がらがらと音を立てて崩れていく。


 蛙化現象によりわたしの六年ぶりのガチ恋未遂は終わった。

 ……はずなのに。

 気づけば、その「終わり」さえも音を立てて崩れ去っていたのだった。

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