第8話「俺の選ぶ道」

 領地を飢饉から救った英雄。バルトラン辺境伯は、俺の功績を最大限に評価してくれた。

「タクミ。お前には、男爵の位と、この領地で最も肥沃な土地を与えよう。我が臣下として、これからもこの領地のために力を尽くしてほしい」

 謁見の間で、辺境伯はそう告げた。

 貴族になる。それは、この世界では誰もが夢見る、最高の栄誉だろう。周りにいた家臣たちは、羨望と嫉妬の入り混じった目で俺を見ていた。

 だが、俺の心は揺れていた。

 俺は貴族になりたいわけじゃない。豪華な屋敷に住み、贅沢な暮らしをしたいわけでもない。俺がやりたいのは、ただ一つ。自分の手で土を耕し、作物を育てることだ。

「ありがたきお言葉ですが、辺境伯様。一つ、お願いがございます」

 俺は深々と頭を下げた。

「俺は、貴族の器ではありません。どうか、一人の農民として、ミスト村のあの畑にいることをお許しください」

 その言葉に、謁見の間がざわついた。与えられた栄誉を、自ら辞退する者など前代未聞だったからだ。

「……本気か、タクミ」

 辺境伯は、驚いたように俺を見つめる。

「はい。俺は、土と共に生きるのが性分なんです。もちろん、農業指導官としての仕事は、これからも続けさせていただきます。この領地が、世界一の穀倉地帯になるまで、俺の知識を全て提供することをお約束します」

 俺の真剣な目に、辺境伯はしばらく何かを考えていたが、やがて、ふっと笑みを漏らした。

「……そうか。それこそが、お前らしいな。よかろう。その願い、聞き届けよう。その代わり、ミスト村とその周辺の土地は、全てお前の管理地とする。税も免除だ。好きに畑を広げ、好きな作物を育てるがいい」

「本当ですか!?ありがとうございます!」

 望外の計らいに、俺は心から感謝した。

 こうして、俺は貴族にはならず、ミスト村の特別な農民として、自分の居場所を得た。

 村に帰ると、皆が俺を温かく迎えてくれた。

「おかえり、タクミ!」

「やっぱりお前は、この村の土が一番似合うぜ!」

 村人たちの笑顔が、何よりの褒美だった。

 その夜、俺はリナさんを、二人で初めて作ったあの畑に呼び出した。三つの月が、豊かに実った畑を優しく照らしている。

「リナさん。俺さ、この村に来て、本当によかったと思ってる」

「私もです。タクミさんが来てくれて、この村は変わりました。……私も、変われました」

 リナさんは、少し恥ずかしそうに俯く。

 俺は意を決して、彼女に向き直った。

「俺、これからもずっと、この村で、リナさんと一緒に畑を耕していきたい。リナさんが作った料理を、毎日食べたい。……俺と、結婚してくれませんか」

 精一杯のプロポーズだった。

 リナさんは、顔を真っ赤にして、だけど、今までで一番綺麗な笑顔で、こくりと頷いた。

「……はい。喜んで」

 その答えを聞いて、俺は彼女をそっと抱きしめた。土の匂いと、彼女の優しい温もりが、俺を包み込む。

 足元では、ポチが「きゅい、きゅい!」と祝福するように鳴いていた。

 異世界に来て、全てを失ったと思った。だが、俺はここで、何物にも代えがたい、かけがえのないものを見つけた。

 信頼できる仲間たち。愛する人。そして、心から打ち込める仕事。

 俺の成り上がり物語は、これで終わりじゃない。むしろ、ここからが始まりだ。

 この豊かな大地で、大切な人たちと笑い合いながら生きていく。そんな、ささやかで、だけど最高に幸せなスローライフが、今、始まろうとしていた。

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