第9話 漏れ聞こえてきた秘密

 その夜、璃玖はなかなか寝つけず、頻繁に寝返りを打っていた。


 昨日も今日も、ベルトホルトの様子がどこかおかしかったからだ。黙りこくって考えこんでいることが多く、話しかけても上の空で、何かあったのですかと訊いてみてもはぐらかすばかりなのである。


 ベルトホルトさん、何に悩んでるんだろう。自分のこと? 領地経営のこと? ヴィルヘルムさんのこと? それともぼくのこと……?


 候補はたくさん思いつくが、どれが正解なのかはわからない。少しでも悩みを軽くしてあげられたらと思うが、何の力も持たない自分には過ぎた願いなのだろうか。


 ようやく睡魔が思考の邪魔をしはじめ、璃玖を眠りにいざなおうとしたころ、


「くぁっ、くぁっ、くぁっ!」


 フルーの必死な鳴き声で現実に引き戻された。見ると、フルーが狼狽うろたえたように箱の中を這い回っている。その右目が白く濁っていることに気づき、璃玖の心臓はどくんと鳴って、顔から血の気が引いた。


「フルー、フルー! どうしたの、大丈夫!?」


 抱き上げてめつすがめつ右目を見る。ヒョウモントカゲモドキの目の白濁は脱皮不全や外傷、角膜炎や白内障によるものが多いらしいが、ウスバニジヤモリもそうなのだろうか。


 とにかく早くベルトホルトさんを呼んでこなくちゃ……!


 気が動転していたのと、最近使っていなかったのとで、璃玖はすっかり忘れていた。ベルトホルトに用があるときは、あの指輪に呼びかければよいということを。


「待っててね、フルー!」


 不安と焦りを抑え、いつにもまして優しくフルーを箱に戻して、部屋を飛び出した。窓から差しこむ月明かりを頼りにベルトホルトの部屋へ向かう。いくら広い館だといっても限りがあるはずなのに、何キロも何十分も歩いているような気がする。


 ようやく、素材も装飾もひときわ豪奢な扉の前に辿り着いてノックしようとしたとき、


「それでは……それでは!」


 激した男の声が漏れてきて、璃玖の手は扉まで数センチのところで止まってしまった。盗み聞きなんてしてはいけないと思ったが、倫理観を上回る驚きと好奇心が、璃玖をその場に留まらせる。


「兄上は……早ければあと四年ほどで死んでしまわれるのですよ!?」


 え……?


 ここはベルトホルトの部屋で、ベルトホルトには弟がいる。つまりこの声はヴィルヘルムのもので、兄上というのはベルトホルトのことで――。


 ベルトホルトさんがあと四年で死んでしまう? そんな、どうして……!?


 ヴィルヘルムの声が金槌か何かになり、頭に叩きつけられたような気がした。体を反転させて扉の横の壁にもたれ、胸を押さえて喘ぐ。ベルトホルトが何か答えたが、彼の声はヴィルヘルムのものとは対照的に落ち着いていて聞き取れない。


「……わかりました」


 辛うじて感情を押し殺している声で、ヴィルヘルムはつづけた。


「では、兄上の代わりに私があのニンゲンに魔蒼玉を装着します。そして、時が来たら私があのニンゲンを殺します」


 わたしがあのにんげんをころす……?

 ころすって、どういう意味だっけ……? えーと、そうだ、命を奪うってことだ。兄上の代わりにってことは……本当ならベルトホルトさんがぼくを殺すはずだったってこと……?

 嘘だ。信じられない。ありえない。でも……聞き間違いじゃなかった。


 異物を飲みこんでしまったかのように息が詰まり、猛烈な動悸で胸が破れそうになったが、それでも生存本能は璃玖を見捨てなかった。


 死にたくないという思いに突き動かされ、璃玖はふらつきながらももと来た廊下を引き返した。部屋に滑りこむやいなや、


「ごめんねフルー! いまはとにかく逃げなくちゃ!」


 フルーの首輪を外して胸に抱く。自分を殺そうとしているなら、フルーもどうするつもりかわからない。


 璃玖は今度は忍び足で部屋を出て、見回りの兵士たちの目を盗みながら階段へ向かった。ただならぬ気配を察しているのか、幸いフルーも声を出さないでくれている。


 階段を下り、目立たないよう壁沿いに玄関ホールを進んで扉を開けようとしたが、押しても引いてもびくともしない。どうやら夜は鍵がかかっているらしい。しかも扉には鍵穴だけで、かんぬきや掛け金やつまみは見当たらない。つまり、鍵がなければ開けられないということだ。それに――そうだ、館の前には昼でも門番がいた。よりいっそう警戒が必要な夜に、彼らがいないなんてありえない。


 どうしよう、どうしよう、どうしよう……。


 絨毯に全身の血が吸い取られていくように感じながらも、活路を探して広間を見回した。部屋に戻ってシーツを裂いて結び合わせ、どこかに結びつけて窓から逃げ出すという手もあるが、窓の近くにはその「どこか」になりそうなものがなかったはずだ。


 と、飾られていた花瓶のひとつが目に留まった。高さ三十センチくらいで、腕っぷしにはまるで自信のない璃玖にも扱えそうだ。


 璃玖は花瓶を台座から下ろし、代わりにフルーを台座に乗せた。


「絶対にそこから下りちゃダメだよ!」


 きょとんとしているフルーに言い聞かせ、花瓶を抱えて走り、十メートルくらい離れた窓に投げつける。耳をろうするような音がして窓が割れ、ガラスが飛び散った。身を捩って腕で顔を庇い、降りかかったガラス片を払い落とす。


 台座に駆け戻ると、フルーの姿がなかった。背筋が凍ったが、台座から三メートルくらい右の絨毯の上で硬直しているのを見つけて胸を撫で下ろす。驚きのあまり思わず飛び下りてしまったものの、音のしたほうと璃玖のいるほうが同じだったので、逃げればよいのか璃玖に駆け寄っていけばよいのか、わからなくなってしまったのだろう。


「ごめんね、具合が悪いのにこんな……」


 璃玖はフルーを胸に抱いてやんわりと力をこめ、自分よりもフルーが傷つかないように注意しながら、ガラスにあいた大穴から外に出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る