第2話 敵か味方か、絶望か希望か
扉の向こうより部屋のほうが暗いので、はじめは扉を開けたのがどんな人間か、あるいは人外かわからなかったが、相手が近づいてくるにつれて姿が見て取れるようになった。
三十歳前後の背の高い男性で、クラスメートの女子の九割は黄色い声を上げそうな、精悍な顔立ちとバランスの良い体つきをしている。髪はチョコレート色で目はオリーブ色、白いシャツに無彩色で統一したベストとジャケットとズボンを身に着けていた。
何よりも特徴的なのは、彼の耳と手だった。耳は完全に狼や一部の犬のそれで、手の甲は髪と同じチョコレート色の毛に覆われており、爪も人間より狼や犬に近い。
獣人……⁉
再び、マンガやアニメやラノベで知ったことばが思い浮かぶ。
獣人の男はつかつかと近づいてきた。ウサギが猟犬に追われているときのような本能的な恐怖に駆られ、璃玖は悪手だとわかっていながらも部屋の奥へ逃げようとする。まともに立つこともできないうちに転びそうになったとき、男に腕を摑まれた。
「やだっ……離してください!」
叫ぶだけではもちろん、全力でもがいても男の手はびくともしない。それどころかもう一方の手も迫ってきた。殴られると思って目を瞑ったが、いつまで経っても衝撃や痛みは襲ってこない。
恐る恐る目を開けると、男は何とペンダントを差し出していた。ペンダントトップは腕輪と同じ金属と思しき直径三センチくらいの円盤で、やはり文字列が刻みこまれている。
「あ、あの……」
璃玖が目をぱちくりさせると、男は璃玖を座らせてからそっと右手を離した。ペンダントを持っている左手を、「これを首に掛けろ」といいたげに上下に動かす。
璃玖は腹をくくってペンダントを受け取り、首に掛けてみた。と、
「これでことばが通じるようになる」
男が無愛想に言ったのだ。
「……っ⁉」
璃玖が驚愕し、円盤を抓んでまじまじと見つめていると、
「その円盤には、相手のことばは自分の用いることばに訳し、自分のことばは相手の用いることばに訳す呪文が刻まれている」
男が説明してくれた。
今度は、璃玖は男をまじまじと見つめた。わざわざことばが通じるようにしてくれたなんて、少なくともこのひとは敵ではないのかもしれない。そう思ったおかげで、
「頭と手首の輪は外すぞ」
男が頭に手を伸ばしてきたときも、さっきのような恐怖は感じなかった。
三つの輪を外してもらった璃玖は、
「これはもう……要らないんですか?」
輪を目で指しながらおずおずと訊いてみた。そこで、頭に嵌まっていた輪には、文字だけではなくサファイアのような宝石もついていたことに気づく。だが、男はその問いには答えず宝石を見つめ、
「やはりな……」
つぶやいて小さくため息をついた。と、輪を床に置き、何のことかわからずにいる璃玖を軽々と抱き上げる。いわゆるお姫様抱っこというあれだ。
「ひゃあっ⁉」
璃玖は素っ頓狂な声を上げたが、男は構わず部屋を出て廊下を進んでいく。廊下の天井はアーチ型をしていて、床にはグレーと白のマーブル模様の石が敷き詰められていた。
男は部屋のひとつの前で立ち止まり、鍵を開けて中に入っていった。幾何学模様のモスグリーンの壁紙、壁を彩る獣人の貴族や貴婦人の絵画、花模様の臙脂色の絨毯、革張りのソファ、キャラメル色のナイトテーブル、薔薇色の天蓋つきのベッド。
やっぱり異世界ファンタジーの世界だ……。中世ヨーロッパ風? ううん、マンガとかアニメとかラノベでよくある異世界ファンタジーの世界は、中世より近世に近いんだっけ……。
思わず見とれていた璃玖を、男はベッドに座らせた。毛布を捲って璃玖を寝かせ、毛布を掛けてくれる。
やっぱり、このひとは敵じゃない……。
その認識を強めた璃玖は、
「あの……あなたがぼくをこの世界に連れてきたんですか? どうして……?」
ようやく最大の疑問を口にすることができた。だが男は数秒黙りこんだあと、
「あいにくその問いには答えられない」
答えになっていない答えを返してくる。
「そんな……」
半ば呆然と、半ば抗議するように言ったが、
「喉が渇いたらテーブルの上のカップの水を飲め。用があるときはこの指輪に呼びかけろ……用を足したくなったときもだ」
男は例の金属でできた大きな指輪を璃玖の指に嵌め、くるりと背を向けてしまった。いまの自分はひとりでトイレにも行けないのだと思うと、羞恥で体がカッと火照ったが、どうしてこの世界に転移してきたのか、そしてもとの世界に戻れるのか知ることに比べれば、それすら些細なことだ。
「待って……待ってください!」
璃玖の悲痛な声にも男は振り向かず、ふさふさした尻尾を揺らしながら扉へ向かっていき、
「悪いが、鍵はかけさせてもらう」
言い残して部屋を出ていってしまった。
どうして、あのひとはぼくの質問に答えてくれなかったんだろう。また閉じこめられてしまったし、やっぱり敵なんだろうか……。
胸には絶望が、目には涙が甦ってきた。こんなふうに翻弄されるのはもういやだ、いっそ希望か絶望のどちらかしか感じないでいられればいいのにとさえ思う。
璃玖はうつぶせになって枕を握りしめ、再び愛する家族の名を呼びながら啜り泣いた。
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