せめてその日まで幸福を ~何も持たない少年と、何も語らぬ獣人は、運命に抗い愛を育む~
ハル
第1話 ぼくは幸せだったのに
目を覚ました
璃玖の家の天井にはオフホワイトの壁紙が貼られていて、もちろん照明もついている。
旅行でもしてたっけ――と思ったが、そんなはずはない。昨日はいつもどおりの平日だった。
学校に行って帰ってきて、雑種犬のマロンとヒョウモントカゲモドキのレオの世話や、宿題や予習復習をした。夕ごはんを食べてお風呂に入って、マロンと一緒にベッドにもぐりこんだ。もちろん――というべきかはわからないが、合間合間にメッセンジャーアプリで友達とやりとりをしたり、動画を観たりマンガを読んだりもした。
それなのに、どうして……。
心臓が早鐘のように鳴りはじめる。心臓だけではなく全身の血管が音を立てているような気がした。
起き上がってまわりを見回すと、壁も武骨な石造りで、壁の一枚には窓が穿たれ、一枚には鋼のような金属の扉が嵌めこまれていた。窓は、標準よりずいぶん華奢な中学二年生の璃玖なら通り抜けられるかもしれない大きさだが、あいにく鉄の棒が何本も並んでいる。
同時に頭と両手首に重みを感じたので、頭には手を手首には目をやってみた。どちらにも二センチくらいの太さの、くすんだ銀色の金属の輪が嵌まっている。
手首の輪には見たこともない文字列が刻みこまれていて、それは左右でちがうようだ。頭の輪も同様かもしれない。もちろん外せばわかるが、外したら何が起こるかわからないのが怖い。
そのとき、脳裏に異世界転生ということばが浮かんだ。マンガやアニメやラノベで絶大な人気を誇るあれだ。
自分は異世界に転生してしまったのだろうか。そう思うと、後ろ襟の中に氷を入れられたように背筋がぞっとした。
――だってそれはつまり、死んでしまったということに他ならないのだから。璃玖の歳で、前日までぴんぴんしていたのに寝ているあいだに突然死する確率は極めて低いだろうが、完全なゼロとはいえない。
璃玖が知っている異世界転生ものの主人公は、親に虐待されていたりいじめに遭っていたり社畜だったりして、前世に未練を持っていないことが多かった。
だが、璃玖はちがう。両親は優しかったし学校は楽しかったし、もちろん死ぬほど働かされたことなんてなかった。母の穏やかな微笑が、父の豪快な笑顔が、友人たちのはしゃぐ声が、マロンの無垢な瞳が、長い舌で自分の目玉を舐めるレオのしぐさが、脳裏に浮かんで胸が締めつけられる。
「母さん、父さん、マロン、レオ……」
声が震えて体も震え出した。鼻の奥がつんとして、目の前の景色がぐにゃりと歪む。
いけない……。
両親は「男の子は泣いちゃダメ」なんて言わなかったが、性別に関係なく中学二年生にもなって泣くのは恥ずかしいし、泣いたらパニックを起こして何も考えられなくなってしまいそうな気がした。
目をこすって無理やり涙を止めようとしたとき、あることに気づいてはっとした。
この手……。
痩せてはいるものの、この手は十四年近く馴染んできた手だ。転生したらふつう姿形は変わるはずである。
だったら……考えられるのは異世界転移?
転生したのではなく転移したのなら、もとの世界に帰れる希望がある。少し元気を出した璃玖はベッドから下りてみたが、たちまちバランスを崩して床にへたりこんでしまった。お腹が空いているわけでも疲れているわけでもないのに、自分の体が自分のものではないような気がする。
不安と焦燥に駆られながらも、璃玖は唇を噛んで立ち上がった。歩いたほうがかえってバランスがとりやすいかもしれないと思い、今度は足を踏み出してみたが、三歩も進まないうちに再びへたりこんでしまう。
おそらく、自分は閉じこめられている。
しかも、立つことも歩くこともできない。
希望は瞬く間に絶望に変わり、こらえていた涙がとうとう零れ落ちた。
「誰か……誰かいませんか⁉」
嗚咽の合間に、助けを求めることばが口を衝いて出る。外に誰かいたとしても、それはきっと自分を閉じこめている人間で、味方だとは思えないのに。いや、ここが異世界なら人間でもないかもしれないのに――。
だが、何度同じことばを繰り返しても誰も来てくれないと、敵でもよいから、人間でなくてもよいから姿を見せてほしいと思ってしまう。
――璃玖の願いは叶った。
コツコツという足音が近づいてきて、錠の開く音が響き、扉が軋みながらゆっくり開いたのだ。
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