【根源存在短編小説】夢見る女たち~大いなる母への帰還(約21,000字)
藍埜佑(あいのたすく)
序章:運命の交差点~二つの叡智を宿した女
オーストラリア大陸の心臓部、赤い砂漠が空の青を飲み込む広大な大地に、彼女はいた。
その名をナルリタという。
アナング族の女性長老であり、その皮膚に刻まれた皺の一本一本が、この土地の
彼女の瞳は、ウルルの巨岩が抱く夕暮れの影の色をしていた。深く、静かで、しかしその奥には燃え尽きることのない焚き火の熾火のような叡智が揺らめいている。ナルリタは、ただの長老ではなかった。彼女は二つの、全く異なる源流から流れる大河が、その魂という広大な河口で出会い混じり合った奇跡のような存在だった。
「女は器よ」
祖母イルマが、幼いナルリタの額に赤い土を塗りながら囁いた言葉が、今も彼女の記憶の奥底で響いている。その時はまだ理解できなかった。
器とは何を受け止めるものなのか。
何を注がれるものなのか。
一つ目の河は、ドリームタイム。
時間の始まりからこの大陸を流れ続ける祖霊たちの夢の記憶。彼女は物心ついた頃から祖母の膝の上で、虹の蛇がいかにして大地を創り、星々の古老がいかにして人間に火を与えたかという物語を聞いて育った。
現代の神経科学者なら、これを「エピソード記憶の世代間継承」と呼ぶかもしれない。
しかし彼女の「知る」という行為は、頭で考えることではなかった。風の匂いを嗅ぎ、土の色を読み、ユーカリの葉のざわめきに耳を澄ませることで、大地そのものと対話し記憶を直接引き出すことだった。それは右脳の直感的認知機能を極限まで発達させた、五万年の進化の結果だった。
そして二つ目の河。それは、遥かヒマラヤの高峰から流れ来る、澄み切った雪解け水のような叡智だった。
およそ五十年前、まだ若く好奇心に満ちていたナルリタは、この大陸を訪れた若き日のダライ・ラマ14世(テンジン・ギャツォ)と運命的な出会いを果たした。オーストラリア政府が初めてチベット難民の受け入れを表明した年のことだった。通訳を介した短い対話の中で、法王は彼女の瞳の奥に磨かれざるダイアモンドの原石のような深い霊性を見出した。
「あなたの中に、古い記憶が眠っています」
法王は彼女の手を取りながら言った。
「それは一人の女性の記憶ではありません。大いなる母の記憶です」
異例の計らいとして、彼女はヒマラヤの麓の尼僧院で、チベット仏教の最も深遠な瞑想法を学ぶ機会を与えられた。そこで彼女は心を静め、意識の内奥へと深く潜っていくための精緻な地図を手に入れた。
トゥクダム――死を超えて意識を保つ究極の瞑想法。
これは現代の意識研究者たちが「意識の連続性」と呼ぶ現象の、最も洗練された実践形態だった。脳死後も数日間、脳波活動に似た微弱な電気的活動が観測される現象について、チベット僧たちは千年以上前から詳細な内観報告を残していた。
空性――全ての事象が相互依存の中にあり、実体を持たないという深遠な真理。
これは現代量子力学の「非局所性」や「観測者効果」と驚くほど一致していた。
帰還したナルリタは、西洋文明の押し寄せる波に翻弄され、アイデンティティを見失いかけていた部族の中で静かに、しかし力強くその二つの叡智を編み始めた。大地に根ざしたドリームタイムの直感的な知恵に、チベット仏教の鋭利な内省のメスを入れた。
「女は川よ」
彼女は若い女たちに教えた。
「二つの川が出会う場所が、一番豊かな土地を作るの」
彼女の実践は、もはやどちらか一方に属するものではなかった。それは地球の最も古い大陸の記憶と、人類の最も洗練された内観の技法が結びついた全く新しい霊性の道だった。
そして今、七十八歳になったナルリタは自らの旅の終わりが近いことを、骨の軋みと風の囁きで知っていた。彼女は西洋の医者が言う「死」を恐れてはいなかった。
それは終わりではない。
大いなる変容の始まりであり、ドリームタイムへの完全なる帰還に過ぎないのだから。
「器は空になってこそ、新しいものを受け取れる」
彼女は最後の旅のために全てを準備していた。
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