第一章:大いなる眠りへの入口

 陽が傾き、大地が燃えるような茜色に染まる頃、ナルリタは聖地へと向かった。そこは観光客の喧噪から遠く離れた、部族の女たちだけが知る場所。亀の甲羅のように滑らかな巨大な一枚岩が、赤い砂の中から突き出している。太古の昔、母なる大地が産み落とした最初の卵だと神話は伝えていた。


 地質学者なら、これを十億年前のプロテロゾイック代の砂岩が、長い年月をかけて風化と隆起を繰り返して形成された残丘モナドノックだと説明するだろう。


 しかしナルリタには、この岩が持つ記憶の重さが手に取るように分かった。それは単なる鉱物の集合体ではない。無数の生命が生まれ、死んでいった記録を刻んだ、大地の記憶装置だった。


 ナルリタは岩の麓の、わずかなくぼみに静かに身を横たえた。痩せてはいたが、その背筋は一本の槍のようにまっすぐだった。彼女の周りを三世代にわたる女たちが、沈黙のうちに円陣を組んで座った。


 最年長のクニャ、八十三歳。白内障で目は見えないが、その耳は若い鷹のように鋭い。

 母世代のパティ、ワンヤ、ニンティ。それぞれが十人以上の子を産み育てた。

 若い世代のミルカ、アンヤ、ピピ。まだ初潮も迎えていない少女も他に数人。


 その輪は過去と未来を繋ぐ永遠の円環を象徴していた。


 「女の身体は月と同じリズムで生きている」


 ナルリタは静かに語った。


「二十八日で一回転。それは月の軌道周期と完全に一致している。偶然ではない。私たちは天体の娘たちよ」


 現代の生物学者たちも、女性の月経周期と月の満ち欠けの関係に注目し始めていた。人工照明のない時代、女性たちは満月の夜に排卵し、新月の夜に月経を迎えていた。女性の身体は文字通り、宇宙のリズムと同調する精密な時計だったのだ。


 やがて一番年長の老婆クニャが、低く深く歌い始めた。それは言葉の意味を超えた、大地の振動そのもののような歌だった。他の女たちの声がそれに寄り添い重なり合い、うねりとなって聖地全体を揺り動かす。


 この歌には科学的な根拠があった。


 人間の声帯が発する低周波の振動は、7.83ヘルツの「シューマン共振」と呼ばれる地球の基本振動数に同調する。それは地球の電離層と地表面の間で発生する定在波で、すべての生物の脳波に影響を与える。女たちの歌は、文字通り惑星意識との交信だった。


 それはナルリタの魂を、この物質世界からドリームタイムへと送り出すための古代の船歌だった。


 歌声の波に乗りながら、ナルリタは静かに呼吸を整えた。チベットで学んだ死の瞑想――トゥクダムの技法が自然に立ち上がってくる。吸う息と共に宇宙の生命力を取り込み、吐く息と共に個我の執着を手放していく。


 「プラーナ」とサンスクリット語で呼ばれるこの生命エネルギーは、現代物理学の「ゼロポイント場」と同じものかもしれない。


 量子力学によれば、真空中にも膨大なエネルギーが満ちており、それが素粒子の対生成と対消滅を引き起こしている。古代の賢者たちは、このエネルギーの海から直接、生命力を取り出す術を知っていたのだ。


 意識が徐々に五感から離れていく。女たちの歌声はもはや耳で聞く音ではなく、皮膚で感じる振動となった。バターのように溶けていく夕陽の光は、瞼の裏で踊る色彩の粒子となった。


 「私は水よ」


 ナルリタは心の中で呟いた。


「形を持たず、あらゆる形の器になる」


 やがて心臓の鼓動がゆっくりとその間隔を広げていく。そして最後の一打ちを終え、永遠の静寂へと沈んでいった。


 医学的にはナルリタは死んだ。


 しかし彼女の意識は、これまでになく鮮明に覚醒していた。


 彼女は自分が大地と一体化していくのを感じていた。背中が触れている岩盤を通じて、惑星の自転の微かな脈動が子守唄のように伝わってくる。


 それは「コリオリ効果」と呼ばれる現象の体感だった。地球の回転によって、大気や海流に働く見かけの力。女たちの歌声は、彼女を個人のナルリタという存在から、より大きな何かへと誘っていた。


 そしてドリームタイムの扉が開いた。


 それはどこか別の場所へ行くことではなかった。むしろ時間の流れという人間特有の錯覚から解放されることだった。


 彼女の人生の全ての出来事が地層のように重なり合い、一枚の絵として現れた。


 赤ん坊として産声を上げた瞬間、狩人として初めてカンガルーを仕留めた瞬間、ダライ・ラマと出会った瞬間、そして今この死の床にある瞬間。それら全てが優劣なく前後なく、ただ「今」ここに同時に存在していた。


 線形時間は消滅し、永遠の現在だけがそこにあった。


「私」という感覚が、水に落とした一滴の絵の具のように、ゆっくりと拡散していく。その輪郭は曖昧になり、周りで歌う女たち、何千世代にもわたる祖先たち、そしてまだ生まれぬ未来の子孫たちの意識と溶け合い始めた。


 自分は一個の波ではなく、と彼女は知った。


 思考が言葉の軛から解き放たれる。もはや概念で世界を切り分ける必要はない。感情は色彩の渦となり、記憶は音の響きとなり、叡智は全身を貫く直感的な閃きとなった。


 「女は海よ」


 彼女の最後の思考が宇宙に響いた。


「それは全ての河がたどり着く場所」


 ナルリタは人間意識の岸辺を離れ、ドリームタイムの大海へとその魂の船を漕ぎ出した。

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