第6話
それからの記憶は曖昧だった。
目を醒ますと、ファルシは自分の部屋のベッドの上にいた。フィニスと共に神殿の中央に聳える塔に行き、大いなる闇の正体を知って──それからどうしたのだろうか。
辺りを見回してもフィニスの姿はなく、呼んでも返事がないどころか気配も感じられなかった。
手のひらには、見知った黄金色に輝く羽根が一つある。
どうやらフィニスは、ファルシのもとからいなくなってしまったようだ。
「ファルシさま。どうなさったの?」
翌朝、朝食も取らずに自室に篭っていたファルシを心配してのことか、フィオナがひょっこりと現れた。それも部屋の扉ではなく、外からよじ登ってきたようで。
突然テラスから現れたフィオナのその姿は、フィニスと重なって見えた。
「……フィニスがね、いなくなってしまったんだ」
どういうこと? とフィオナが首を傾げる。
フィニスの姿はファルシにしか見えていなかったが、彼の話はフィオナによく聞かせていた。そのうちフィオナの元にも現れ、その小さな手を取って、傍に居てくれるだろうと思っていたから。
「……フィニスは、何者だったのだろう」
「フィニスはファルシさまの聖獣ではないの?」
「フィニスは……初めてできた友だと思っていた」
聖獣とは、聖者と縁を結んだ霊獣のことだ。彼らに選ばれた者が聖者と呼ばれ、縁を結んだ聖者は翼を得るが、彼らは代わりに何を得られるのだろうか。
笑ってはぐらかしていたフィニスの姿を思い出していたら、鼻の奥がツンと痛んだ。
「なら、仲直りをしないと」
「たぶん、もう、会えないと思う。そんな気がしている」
「ファルシさまらしくないわ。何かあったの?」
ファルシはぽたりと涙を落とした。涙は悲しい時に流れることを教えてくれたのはフィニスだ。だけど今のファルシは、悲しい思いをしているわけではない。なのに、止まらないのだ。降り出した雨のように、ぱたぱたと落ちてくる。
「……ファルシさま、かなしいのね。フィニスがいなくて、寂しいのね」
「悲しい、のだろうか……私は……」
そうよ、とフィオナが笑う。
「私がいるわ。フィニスの代わりにはなれないけど、私がいるから」
だから泣かないで、とフィオナは繰り返す。
フィオナの身体はファルシよりも小さいというのに、とてもあたたかかった。
フィニスがファルシの前からいなくなった日を境に、フィオナは「帰りたい」と口にしなくなった。頑なに拒否していた聖女の勉強も作法とも向き合うようになり、日を重ねるにつれて彼女は聖女らしくなっていった。
それでもフィオナはフィオナのままだった。変わらない笑顔を浮かべながら、ファルシの傍にいてくれた。
そんな健気で優しいフィオナには、いつまでも笑っていてほしい、聖女の使命など放り出して幸せになってほしいと願うようになった。
死ぬために生まれてくるその運命を、断ち切ることができたのなら。
(──いや、断ち切ってみせよう。たとえ世界の全てを敵に回したとしても)
フィオナが神殿に来てから、一年を迎えた日。
ファルシはフィニスが残した羽根を使い、外の世界からひとりの少年を神殿に迎え入れ、ある計画を進めたのだった。
◆
季節は巡る。
初めて見た時から何一つ変わらない格好をしている神官の行列の間を抜け、ファルシは十五年ぶりに開かれた扉を潜った。
不安と緊張で震えているフィオナの手を取り、長い螺旋階段を彼女と共に登る。
かつてフィニスと共に訪れた最上階では、篝火を囲うように神官が五人立っていた。
「──これより、儀式を執り行います」
神官が松明に火を着け、塔の下へと投げ込む。それがあの獣を起こす火種となっているのか、下から凄まじい火柱が立ち上った。
その炎の中で、ファルシは咆哮を上げる獣の影を見た。イージスの神と呼ばれている、あの獣を。
ファルシはゆっくりと息を吐ききってから、フィオナと向き直った。
「私の聖女」
フィオナの瞳が揺れ動く。
「……ファルシさま?」
「大丈夫。貴女は私が守ってみせる」
ファルシはフィオナの頬にひとつ口づけを落とすと、彼女を背に庇い、右手で光の剣を生み出した。
実態のないこの剣は、魔法で造られたものだ。あの獣の鼓動を止めるために、五年の月日をかけて研究し創り出したもの。
「──イージスの神よ。その姿を現せ」
ファルシが剣を掲げると、炎の柱がぶわりと止まった。吹き荒ぶ熱風の中から現れたのは、五年前にフィニスと共に見たあの獣で。
目も眩む光を纏うその獣は、両眼をカッと開くと、ファルシだけを捉えた。
「(──贄を寄越せ。我の力の源を)」
「いいだろう。しかと味わうがいいッ!」
神と呼ばれし、誰もが恐る大いなる闇。
ファルシは臆することなく、鱗に覆われたその体躯へと目掛けて剣を突き立てた。
「せ、聖王様ッ?! 何を──」
「聖王様を止めよ! 聖女を突き出せ!!」
神官たちが慌てふためきながら動き出す。壊れた人形のような動きをしている彼らは、今まで見たどんな彼らの姿よりも人らしく見え、渇いた笑みがこぼれた。
「私の聖女に触れるでない!」
ファルシは獣に剣を突き立てまま、空いている方の手を振り上げる。唯一扱うことのできる光の魔法を駆使し、聖女であるフィオナをここから遠ざけるために、その身体へ目掛けて魔法を放った。
「ファルシさまぁあああっ!!」
この塔から落ちようとも、彼女の傍に在る霊獣が、うつくしい翼で受け止めてくれることを知っていたから。
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