倫理なき資本主義に花束を
伽墨
第1話 誰も見ていない
はじまりは、ひとつのハンバーガーセットでした。
それは、アプリを通して注文すれば、誰もが簡単に口にできるものでした。ポイントが貯まり、配達料が無料になるキャンペーン中。ついでにコーラをLサイズにするのも、なんのためらいもいりません。スマホをタップするだけで、欲望は満たされる。そこに倫理や事情が入り込む余地などないのです。
しかし、そのハンバーガーセットには、ちょっとした、劇的な、スパイスが振りかけられていました。
カンタレラ──かつて権謀術数のうごめくイタリア半島で、多くの死をもたらした劇薬。今でいえば、ヒ素です。ほとんど味も匂いもしない、透明な裏切り。まさか、気軽に頼んだハンバーガーセットに、そんなものが入っているなんて、誰が想像できたでしょうか。
わたしは、できました。
なぜなら、わたしが──届けたのですから。
《久住の独白》
「俺の名前?何とでも呼んでくれ。どうせ俺はいてもいなくても変わらないんだからな。まあ、話が面倒になるか。じゃあ俺の名前は久住。」
「俺はかつて有機化学を専攻していた。何とか博士号は取ったが、俺のアカデミックキャリアはそこで途絶えた。理由は簡単だ。急に何もかもが虚しく思えたから。」
「虚しくなったとて腹は減る。何とか生計を立てなければならない。よく言われたよ。『なんでお前、ウーバーの配達員なんかやってんの?お前だったら他の道もあったろ』って。俺はもう、人と関わり合うことに疲れ果てていたんだと思う。芥川龍之介は『ただぼんやりとした不安』が原因で自殺したらしいが、俺は何だろうな。自殺する勇気もなかった。選択肢にはあったさ。有機化学には詳しいから、苦しまない死に方もそれなりに把握していた。」
「んで、毎日毎日うんざりするほど自転車を漕いで、見ず知らずの誰かにメシを届ける。全く感謝されることもなく。そうやって誰でもできる、誰がやっても変わらない代替可能な日々を送っていくうちに、何だか俺という存在がフェードアウトしていく感覚があった。初めは『浮世離れしすぎたせいかな』なんて冗談めかしてSNSに投稿してたが、そのうち本当に、誰にも見えない、何かになっていたってわけ。」
「こう見えても、それなりに学術論文は書いていた。ある日、自分の名前でググったら驚いたぜ。何もヒットしないんだ。あんだけ一生懸命実験して、データまとめて、論文書いてたのに。俺の過去、丸ごと無くなっちまったみたいでな。」
「怖いことに異変はそこで止まらなかった。ある日エレベーターに乗ったら、自分の姿がカメラに映らない。アプリもバグっちゃって、俺は存在しないから、どっかの誰かが代わりに『俺』として電脳空間上に存在してることになってる。来る日も来る日も自転車を漕いでメシを運ぶ日々。まあ、現代の奴隷階級って感じだよな。」
「ただね、昔の奴隷と俺は大きく異なる。一つ目は有機化学に詳しかったという点。つまり、人間には何を食わせたら苦しんで死ぬのかってことを、その辺の奴よりかは詳しく知っていた。」
「んで、二つ目は『王侯貴族』たちへ、直接食い物を渡せるって点だ。毒を混ぜようが何をしようが、あいつらは何も疑わない。毒見係もいない。血反吐と泡まみれになって初めて毒を食わされたんだなってなる。これはすごいことだよ。俺みたいな取るに足らない『透明人間』が、どんなに偉い奴でも簡単にぶっ殺せちゃうんだからな。」
《事件》
被害者は、とある有名YouTuberであった。面白おかしいゲーム配信が大人気となり、広告収入とPR案件で月収は数百万を下らないという。「若者に夢を与える存在」としてテレビにも出演していた。
彼はいつも通り、数万人の視聴者を前に、配達アプリでハンバーガーセットを頼み、その様子を配信していた。
「──うん、やっぱうまいな。これ、神。マジで。ポテトもサクサクだし、最近のチェーンの中じゃ断トツだわ」
動画の最中、彼は突然苦悶の声をあげ、画面の向こうで崩れ落ちた。
これが演出だと思われ、しばらく配信は続いた。視聴者たちはコメントで笑い、拡散し、「炎上」させた。
やがて、彼の死は現実として確認される。
死因は「急性ヒ素中毒」──
《社会の反応》
報道は一気に加熱した。
誰が、なぜ、どのようにして──テレビの専門家たちが「テロの可能性」や「模倣犯のリスク」について口々に語り、SNSは「ウーバー配達員=潜在的犯罪者」と決めつけ、差別と偏見が膨れ上がった。
しかし、それでも久住の姿は、どこにも映っていなかった。
彼は透明であり続けた。
《久住の独白》
「やっと、俺の配達がニュースになった。皮肉なもんだろ?」
久住の声は静かだった。怒りとも誇りともつかない感情がその背後に潜んでいた。
「次は誰にしようかね。──まあ、別に、俺がやらんでもいいけどな。きっと、同じような奴、他にもいるだろ。もう、透明になってる奴が。」
そして、通知音が鳴る。
それは、次なる「配達」の始まりを告げていた。
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