@qx_xkl

ずっと前から、目は覚めていた。

明け方、消毒液みたいな味のアルコールを流し込んで、やっと手に入れた睡眠だった。長く続くはずもない。2人掛けにしては広いソファーのお陰で、身体だけはあまり痛くないけれど。

彼女はいつのまにかそこにいた。用事は済んだのか、何をするでもなく佇んでいる。僕を寝かせておこうと息をひそめる様子もなく、かといって起こそうとするわけでもなかった。物思いにふけるように窓の光を眺め、背中を向けたまま彼女は口を開いた。

「荷物、これで全部回収しきったと思うけど、確認して」

もうなくなったのか。彼女が出ていったあと、家に入るのを見たのは今日と一昨日だけだった。いつ取りに来ていたんだろう。僕はいつ引き留めればよかったのだろう。でももう考えても無駄で、ただ彼女の背中をぼうっと見つめるしかなくなる。

「あと、時計の修理はちゃんとこまめにしてね。ちゃんと針が進むように、自分でしっかり持っておくの」

彼女はおもむろにポケットから物を取り出して、机に置いた。愛おしむように触れた指先は、瞬きの間に離れている。この部屋で流れた時間を思い返すようにぐるりと辺りを見回して、僕の視線と交わるほんの手前で、彼女は動きを止めた。

「もう、誰かに委ねたりしないでね」

この視線がもう二度と交わらないことなんて、とっくに分かっていた。諦めるように、僕は目を閉じる。彼女の言葉が頭の中で繰り返される。もう委ねないで、自分でしっかり持っておく。分かったよ、とも、そんなの無理だよ、とも言えるわけがなかった。僕はずっと口を閉ざし、目を閉ざし、何の意味もない狸寝入りをする。

長い沈黙の末に、彼女は立ち上がり口を開いた。

「君はきっと、最後には幸せになれるんだよ」

歩いていく姿を目で追うものの、すぐに視界から途切れ、バタンとドアが閉まる音がした。横たわったままの自分の身体を起こし、机の上を見やる。

彼女の背中で隠れていた場所には、懐中時計が置いてあった。僕は、それをゆっくりと手に取ってみた。



『一緒にいないときも元気が出るような、お守りがほしいの』

昔、彼女が可愛い顔でお願いしたから、僕は昔から大切にしていた懐中時計をプレゼントしたのだ。

彼女はいつもスマートウォッチを使っているから、別に普段から使ってもらいたくて贈ったわけではない。ただ、彼女にずっと持っていてほしかったのだ。恋人に贈るプレゼントとしてはおかしいと分かっていたけれど、自分の完全なエゴで行動した。

その時計はきっと、僕の生きている時間そのものだと思う。だからいろんな思いを込めて贈ったのだ。僕自身が一緒にいられないときは、僕に刻まれる時間だけでも君の側にいてあげられるように。君が僕の時間と常に繋がっていることを示せるように。君が止めさえすれば、僕の時間はもう刻まれないことを分かってもらえるように。

『僕が側にいないときはずっと持っていてね。仕事中も、他の人との外出中も、僕が病気になったときも、僕がいなくなったときも、ずっと。君が、僕がいなくなっても平気だったとしても、ずっと持っていてほしいんだ』

彼女は泣きそうな顔で、僕にそっとキスをした。その時は分からなかったけれど、今になって、彼女は僕に頷かなかったことに気がついた。彼女は、持っていくつもりがなかったのだ。



ねえ、君はさ、あの時計を手放すために、僕と別れたんだね。

最後には幸せになれるだなんて言っていたけどさ、別に僕は次の最後なんかいらなかったよ。君がその最後になってほしかったんだよ。僕は、君がいればずっと幸せだったんだよ。

結局、何も上手くは行かないのだ。僕には僕の時間を止めることなど叶わないから、君がいなくなったとしても、この時計の針を進めなければならない。もう全部終わってしまったのに、僕の時間だけは終わらせることが出来ない。

懐中時計をポケットに入れて、部屋の窓を開けてみる。僕らが初めてこの家に来たときも、同じように桜の木が見えたのを思い出した。当たり前のように来年も、きっと咲いては散っていくのだろう。残酷なまでに美しく、針は変わらない一秒を刻む。

風が花びらを連れてきて、僕の頬に張り付く。あたたかい涙が頬を伝い、花びらが一枚、フローリングに落ちる。

「……大好きだったよ、ずっと、ありがとう」

歪んでいく景色の中で、あの薄桃色の木の下に彼女の影が見えたような気がして、僕は静かに笑った。

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