第3話 共に考える場

【十一月十七日――冷たい雨が、サトウキビの葉を打つ朝】


 オフィスの窓を開けると、東シナ海の潮風が顔を撫でた。十一月の冷たさを含んだその風は、私の額に浮いた汗を、さらっと拭い去っていく。佐久間由紀、五十歳。三島村役場政策課長を五年務める。今日は、ネット中傷防止条例の条文最終調整の日だ。


 デスクの上には、地方自治法の条文と、削除要請のフロー図が広がっている。紙の端には、昨夜書き殴ったメモが貼ってある。

 ――「削除」は、本当に被害者を救うのか?


 午前九時、市長室。山城市長と石黒副市長が、私を待っていた。テーブルの中央には、条例素案の最終案が置かれている。私は、資料を開いた。


「掲示板運営者への削除要請ですが、地方自治法第2条の2に基づき、条例で明確に規定する必要があります」

「だが、運営者が個人の場合、法的拘束力は限定的だ」

 市長の指摘は、鋭い。三島村の人口、四百七人。高齢化率二十七・三パーセント。過疎地では、法的執行の難しさが、本土の十倍は重い。


「判例上、『明確な違法性』が必要です。名誉毀損、侮辱、差別的発言。それ以外は、運営者の裁量に委ねられます」

「では、条例は無力か?」

「いえ、『要請』という形で、行政の姿勢を示す。それが、村の『盾』になる」

 私は、声を張った。だが、胸の奥で、別の声がする。――盾は、時に重くなる。振り回せば、自分たちも傷つく。


 会議は一時間で終わった。だが、私の中で、結論は出ていない。法的正当性と、現場の温度差。その間を埋めるものは、条文ではない。


 午後一時、政策課の小会議室。村井係長が、マニュアル案を広げている。四十二歳。本土のIT企業を経て、三年前に移住してきた。スマホの操作は、私より上手い。


「高齢者向けの電話相談ですが、職員が直接、代理操作する案を練りました」

「だが、個人情報保護条例で、代理操作は原則禁止だ」

「本人確認と同意があれば、可能です。録音して、記録に残せば」

 私は、メモ用紙に、フローを書き込んだ。電話→同意→代理操作→削除要請。だが、紙の隅に、小さな疑問が浮かぶ。

 ――本当に、これで高齢者は安心できるのか?


「村井さん、あなたのお母様は?」

 ふと、口をついた問いだった。

「実は、七十歳です。スマホは、電話とラインだけ。画像の保存も、ぎこちない」

「だったら、代理操作よりも、『一緒に見る』ことから始めたら?」

 村井は、黙った。そして、ゆっくりとうなずいた。


 午後四時、面談室。川村彩さんが、スマートフォンを差し出した。三十八歳。二人の子供の母親だ。指先が震えている。


「十一日間、怖かったんです」

 画面には、娘のインスタグラム。クラスメイトからの中傷が、ずらりと並ぶ。

 ――「ブス」「消えろ」「うざい」

「学校に相談したら、『スルーしなさい』って。でも、子供は夜、布団で震えてるんです」

 私は、机の下で拳を握りしめた。法的な言葉は、ここでは通じない。十一日間。条例があれば、即時対応できたのか? それとも、手続きに十一日かかるのか?


「川村さん、お子さんは今、どこに?」

「実家の母が預かってくれてます。私、役場に来るのも精一杯で」

 私は、画面を見つめた。冷たい光。だが、その向こうに、温もりがある。母の腕。島の和。それを、どう守る?


「本条例は、削除を保証するものではありません」

 私は、言った。正しい言葉だ。だが、正しさが、時に人を傷つける。

「ただ、一緒に考える場は作れます。あなたの声を、村全体で聞く」

 川村さんは、涙を拭った。そして、小さくうなずいた。


 夜、七時。政策課のオフィス。蛍光灯の下、私は人口推移表を広げた。1960年、千三百六十三人。1970年、六百五十五人。2025年、四百七人。五十年で、四分の一以下。ネット中傷対策が、本当に島の持続可能性に寄与するのか?


 デスクの上には、削除要請の手続き書類がある。押印するだけで、法的手続きは完了だ。だが、私はペンを置いた。窓の外を見る。硫黄島の湯けむりが、夜の海に浮かぶ。昔からの風景。だが、今は新しい風も吹く。スマホの風。


 私は、メモ用紙に書き始めた。

 ――「削除要請」ではなく、「共に考える場」。

 高齢者も、若者も、移住者も。誰もが「声」を届けられる場所。それが、私の答えだ。


 明日の住民説明会で、私はこう提案する。

 相談窓口を、ネット中傷の「相談所」ではなく、島全体の「安心センター」にする。削除を目指すのではなく、被害を共有し、予防を学び、時には加害者も巻き込んで「和」を作る。それが、過疎地に必要な「法」の姿だ。


 私は、人口推移表を閉じた。そして、手続き書類に、小さく書き加えた。

 ――「本条例は、島の信頼回復の手段である」


 オフィスの明かりが、一つ消えた。だが、私の中に、小さな明かりが灯った。明日、どんな風が吹こうと、その明かりは消さない。硫黄岳の火のように、絶えず燃えながら、絶えず測りなおす。それが、政策課長の務めだ。


 窓を閉める。雨が、やんでいた。

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