第2話 島の安心センター

【十一月十六日――冷たい北風が、サトウキビの葉を裏返す】


 朝、八時半。市長室のドアを開けると、山城市長が窓の外を見つめていた。背中が少し丸くなっている。昨日の説明会の余韻だろう。


「石黒、座ってくれ」

 振り返った市長の目は、いつもより濁っていた。


 テーブルには、条例施行スケジュールの最終案が広げてある。私は、メモ用紙を取り出した。石黒正道、五十八歳。三島村の副市長を十五年務める。市長と同じく、島生まれの島育ち。だが、今日は「副市長」という肩書きが、妙に重い。


「高齢者対応策だが……」

 市長が口を開いた。

「相談窓口に、スマホ操作が苦手な人も多い。電話申請だけじゃ不十分だ」

「しかし、窓口に人を増やす予算は――」

「予算は後で付ける。まずは、人を守る」


 私は、言葉を呑み込んだ。市長の言い分は正しい。三島村の六十五歳以上は百十二人。全体の二十七・三パーセントだ。1960年には千三百六十三人いた村が、今は四百七人。高齢者の割合は増えているのに、インフラは本土の半世紀前のまま。


「市長、私は――」

 私は、メモ用紙を握りしめた。

「条例よりも、まず人口減少を止めるべきでは?」

 市長の眉が、わずかに動いた。

「ネット中傷に苦しむ高齢者が、島を離れたくなるかもしれない。その時、どう説明する?」

 答えはなかった。私たちは、同じ島で同じ夢を見てきた。だが、夢の見方が少しずれ始めている。


 午後一時、政策課の会議室。佐久間課長と、村井係長が待っていた。村井は四十代。本土で自治体勤務を経て、三年前に移住してきた。現場のことは、私たちより詳しい。


「高齢者への対応ですが……」

 村井は、タブレットを操作した。画面には、相談窓口のフロー図。

「電話申請だけでなく、訪問申請も可能にすべきです。特に、足の不自由な方や、独居の高齢者には」

「だが、職員の人手が――」

「ボランティアを募りましょう」

 佐久間が、老眼鏡をずり上げた。

「島には、まだ人がいる。彼らに、島を守ってもらう」

 私は、窓の外を見た。サトウキビ畑が、枯れて傾いている。北風が、窓ガラスを叩く。行政の論理と、現場の温もり。その間を行き来するのが、私の仕事だと思っていた。だが、今日は違う。私自身が、間に迷い込んでいる。


 午後三時、船で竹島へ向かった。波が高い。船窓に、硫黄島の湯けむりが見える。昔から変わらない風景。だが、変わったものもある。スマホの画面だ。


 公民館には、十五人ほどが集まっていた。本田自治会長が、私を迎えた。七十四歳。去年、奥さんを亡くした。背中が少し丸まっているが、目は鋭い。


「副市長さん、人口が四百人を切った島で、ネット対策が優先なんですか?」

 本田さんは、畳の上に座り直した。

「島人を分断するだけじゃないですか」

 周囲の顔が、揃ってうなずいた。私は、資料を広げた。だが、文字が霞んで見える。


「本条例は、分断を防ぐためのものです」

 私は、声を張った。

「高齢者が、スマホを怖がらないように。若者が、島を出なくて済むように」

「だが、行政が介入することで、『言いにくい』空気になる」

 本田さんの言葉は、胸に突き刺さった。島の「和」とは、何か。私は、本当にそれを守れるのか。


 夜、六時。役場の会議室。高梨課長が、法律的な指摘を始めた。

「削除要請の判断基準が、あいまいだ。訴訟の恐れがある」

「だが、明確にしすぎれば、運用が硬直する」

「人口四百人の村に、法的リスクは重すぎる」

 私は、人口推移表を握りしめた。1960年、千三百六十三人。1970年、六百五十五人。2025年、四百七人。半世紀で、四分の一以下。これが、島の現実だ。


「高梨さん」

 私は、口を開いた。

「条例は、技術的解決策じゃない。信頼構築の手段だ」

 相手は、黙った。私も、黙った。エアコンの音だけが、響く。


 夜、九時。役場を出ると、北風が頬を打った。空には星がない。硫黄岳の湯けむりだけが、闇に浮かぶ。


 私は、ポケットからメモ用紙を取り出した。副市長としての一日の記録。だが、今日は違う。個人としての石黒正道の、葛藤の記録でもある。


 ――島の安心センター。


 ふと、浮んだ言葉だった。相談窓口を、ネット中傷の「相談所」ではなく、島全体の「安心センター」にする。高齢者も、若者も、移住者も。誰もが「声」を届けられる場所。それが、私の答えだ。


 歩き出す。足元に、枯れたサトウキビの葉が積もっている。踏むと、乾いた音がする。昔からの音だ。だが、新しい音もする。スマホの通知音。遠くから、本土の波風が運んでくる音だ。


 私は、振り返った。役場の明かりが、一つ消えた。市長室だ。山城市長も、また明日を考えている。私も、考える。島の和を、人口減少を、ネットの風を。そして、自分自身の、小さな「橋」になる決意を。


 北風が、再び吹いた。だが、今度は少し暖かい。誰かの「声」が、乗っている気がした。

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