クロス

 俺はその日、日比野に会いに行くために外に出た。真夏の暑い日だった。気温は三十五度を悠々と超え、地球温暖化を恨まざるを得ない。背中のギターケースが重く、暑い。

 本来なら土井も同行するはずだったのだが、伊藤さんとの約束があったのをすっかり失念していたらしい。伊藤さんから電話を受け、先ほど慌ただしく離脱した。

 目の前にある電柱には迷子犬のチラシが数枚貼られている。最近は犬の行方不明が増えているらしい。電柱を通り過ぎ、日比野の家の近くの公園に入った。公園には屋根のあるベンチがあり、休憩には丁度いい。

 「あ」

 ベンチには先客がいた。一匹の犬と、一人の男が座っている。

 「やあ」男がこちらを向いた。「暑いね」

 男は俺よりも年上に見えた。色のついたサングラスをしていて目元こそ見えないが、老けているわけではなく、単に大人びている。男の足元に寝転ぶ犬——ゴールデンレトリバーだろうか——は、すやすやと眠っている。何やら見覚えのある毛並みだな、と思った。

 「暑いですね」

 蝉の声がする。男はそれに返事をするように微笑んだ。「夏の音だ」

 「夏の音?」

 「蝉の鳴き声は、夏にしか聴けないからさ。夏だけの特別な音なんだよ。だから、五月蝿いけれど、好きなんだ」

 「いいですね。夏の音か」

 横目で男を見る。男の横顔を見て、俺はようやく彼の“目”に気がついた。

 「もしかして、目、見えないんですか」

 男は苦笑した。「ああ。全盲なんだよ」

 「全盲」

 「ちょっとした明るさとかなら分かるんだけどね。驚いたかい?」

 「はい。ずっと見えてるのかと思ってました」

 男は笑った。「それは、嬉しいな」

 「このサングラス」男がかけているサングラスを触った。「僕は人と話す時もずっと目を閉じているから、違和感を感じさせないために付けているんだよ」

 「へえ」目が見えないだけなのに、そんな配慮までしなくちゃならないのか。俺は少し悲しくなった。

 「僕の友達に、かなり変わった奴がいるんだ」

 俺の心情を見抜いたのか、男は、心配するな、と言うように微笑んだ。「変わった奴ですか」

 俺の頭の中には彼の顔が浮かんだ。

 男は言った。「この前、そいつと自動販売機で飲み物を買ったんだけれど」

 「はい」

 「僕は水が飲みたかったから、水のボタンはどこか訊くじゃないか」男は、僕は見えないから、と付け足した。

 「それで、僕はそいつに言われた通りの場所を押した。そしたら、中身は炭酸の葡萄ジュースだったんだよ」

 「それは」俺は笑ってしまった。「見事に、騙されましたね」

 「そうなんだ。びっくりだろう? 僕が問い詰めたら、そいつ、『騙されるほうが悪いだろ』って言ったんだ」

 俺はまた笑った。もしかしたら、と思っていたが、そんな人間が、この世に二人もいるわけがない。いたら、困る。

 「でも僕は、嬉しかったんだよ。僕は生まれつきこの目だから、生まれてからずっと他人とは違う扱いを受けてきた。みんな優しいから、悪戯をされることなんて一度もなかったわけさ」

 男は本当に嬉しそうに話す。誕生日に食べたホールケーキのことを話す子供のように見えた。

 「だから、なんというかな。彼は本当にマイペースで迷惑な男だけれど、すごいなあって思ったんだ」

 俺は、彼はどこでもこうなんだな、と改めて感心した。

 すると、声がした。「柊木」

 「日比野」

 日比野がこちらに向かってきていた。日比野は俺と隣の男を見て、「なんだ、おまえら、知り合いだったのか?」と目を丸くした。

 「やあ、日比野」男が手を挙げて挨拶した。「さっき知り合ったんだ。君たちも知り合いだったのかい?」

 「バンドでな」日比野が俺の隣に座る。

 「ああ。もしかして、君が日比野のバンドのメンバーなのかい?」

 「そうだよ」日比野は言った。男は「話は聞いてるよ。会えて嬉しい」と笑った。

 男の名前は向井むかいといった。向井さんは日比野のアパートの近くに住んでいるご近所さんらしく、今日は日比野によばれてこの公園に来ていたらしい。

 「収穫はあったのかよ」日比野が向井さんに顔を寄せる。向井さんは「ないよ。あるわけないだろ」と苦笑した。

 「収穫って?」

 「最近、近所で犬が消えるんだよ」

 「犬が? なんで?」

 「それを知るために、犬を飼っている向井に協力してもらっているんだよ」

 「僕は乗り気ではないけどね」

 話を聞くと、最近この辺りで犬が行方不明になることが多いらしい。ここ一週間で三匹の犬が消え、昨日は日比野のアパートの隣人の犬が行方不明になったらしい。さすがにおかしい、と日比野は思い、向井さんに声をかけて、犯人探しを手伝わせているようだった。

 「うちの日比野が、迷惑をかけてすいません」

 日比野が飲み物を買いに行った隙に、俺は向井さんに言った。

 「いいんだ」向井さんは微笑んだ。「それに、迷惑はしてない。僕も楽しいし、きっとこいつも楽しいって言ってる」

 向井さんはそう言いながら、足元の犬を撫でた。心地良さそうに眠るゴールデンレトリバーは、見れば見るほど日比野にそっくりだった。

 「名前は、なんていうんです?」

 「デイズ」

 「デイズか」日々、とも訳せるな、と思った。ますます日比野にそっくりだ。

 「日比野いわく、『目の見えないおまえがデイズを連れていたら、誘拐犯は絶対にデイズを狙うから、そいつを捕まえろ』って。大役を任されたものだよね」

 「誘拐って」あいつはすぐに決めつける。

 「誘拐とは限らないのにね」

 「本当にすみません」

 「君が謝ることはないよ」向井さんは笑った。「本当、彼は面白い」

 日比野が両手にジュースを抱えて戻ってきた。「誘拐犯は来たか?」

 「来ていませんよ、隊長」向井さんが日比野に手渡された缶ジュースを開けながら言った。

 「というか日比野、誘拐かどうか、証拠はあるの?」

 「ないね。俺の勘だよ」日比野は真顔で言った。「だから、現代のシャーロック・ホームズに推理してもらおうと思ったんだよ。ギターのついでだ」

 「俺は推理を安売りしないんだけれど」

 「シャーロック・ホームズなのかい?」向井さんは可笑げに言った。

 「こいつの推理は外れないんだぜ、向井」

 日比野が歯を見せた。「知らなかっただろ」


 ♫


 俺たちはデイズのリードを木に結び、デイズが見える位置で草むらの影に隠れた。こうやってかくれんぼのようなことをするのは子供の頃以来だった。

 「なんだかわくわくしてきた」

 向井さんが体を揺する。俺も少し楽しくなってきた。日比野は真剣な顔をしていた。

 そのまま十分ほど待った。誘拐犯らしき人物は現れず、数人の子供が公園に遊びに来ただけだった。

 「日比野、やっぱり諦めない?」

 「諦めない。俺たちが諦めたら、消えた犬たちはどうするんだ」

 「プロに任せたらいいのに」

 「他人に頼るのはいやなんだよ」

 「犯人は、昼間から堂々と誘拐しに来るのかな」

 まだ誘拐とも決まっていないのに、向井さんは言った。確かに、もし誘拐だとしたら、こんな昼間から公園で犬を攫うだろうか。

 「君ら、何してるの」

 突然上から降ってきた声に、俺と日比野は悲鳴を上げて転がった。向井さんも少し顔をしかめるのが視界の隅に見えた。頭上を見ると、そこには六十歳くらいの老爺が立っていた。「かくれんぼ?」

 「びっくりした」日比野が胸を押さえて言った。

 「驚かしちゃったか。すまんね」老爺は笑って、俺たちと目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。

 「お爺さんは、なにしてるんですか?」

 向井さんが訊いた。思えば向井さんは、ほとんど驚いていなかった。きっとこの老爺の気配には気づいていたのだろう。

 「わたしは、何もしていないよ」

 よく見ると、老爺の服は汚れていて、ところどころ破れたりもしており、清潔とはいえなかった。その風貌から、この公園に住んでいるホームレスなのだろうと推測はついた。

 「爺さん、最近このへんで、犬が消えるのは知ってるか?」日比野が立ち上がった。

 「犬が? 行方不明のやつか」

 「それ。俺の近所でも三匹くらい消えていて、何か知らないか?」

 「わたしは知らないな」老爺は白い髭を触った。

 「そうかあ。知らねえか」

 日比野は肩を落とし、地面に座り直した。

 「力になれなくて、悪いね」

 「いえ、大丈夫です」

 老爺はまた髭を触り、「ああ、その件と関係あるかは分からないけれど」と言った。「この辺りでは犬の虐待が多い気がするな」

 「虐待?」

 「俺は外に住んでいるから、わかるんだ。動物愛護団体、というやつらが、よくこの辺に来ていた時期があったんだよ」

 「それは確かなのか?」日比野が身を取り出す。

 「確かなはずだよ。あの団体は、犬が虐待されているから来るんだろう? だから、そうだと思う」

 「なるほど」向井さんが微笑んだ。

 「じゃあ、俺はバイトがあるから、この辺でな。あ、そうだ」

 老爺は手を打った。「最近、ここらは変な輩がうろついているんだよ。カツアゲをしたり、近所の人が殴られたなんて話も聞いた」

 「なんだそれは」

 「まあ、お兄さんたちも気をつけなよ」

 そう言うと老爺は立ち上がり、公園から消えていった。日比野を見ると、何やら真剣に考え込んでいるようだった。

 「これは、立派な事件かもしれないね」

 向井さんが呟いた。


 ♫


 「あのおじいさんからは、犬の匂いがするんだ」

 向井さんがデイズのリードを木から外しながら言った。「僕は目が見えないぶん、鼻が利くんだよね」

 「つまり、誘拐の犯人はあのお爺さんってこと?」

 「断定するには証拠がない。けれど、可能性は高い」

 「俺、わかったぞ」しゃがみ込んで何かぶつぶつ言っていた日比野が、急に立ち上がった。

 「あの爺さんは、ヒーローなんだ」

 「ヒーロー?」

 「そうだよ。虐待されていた犬を助け出して、どこかに隠しているんだ。あの爺さんは犬のヒーローなんだよ」

 「なるほどね」向井さんは頷いた。「いい推理だけれど、たぶん違うよ」

 「なんでだよ」

 「彼からは、犬の匂いともう一つ、血の匂いがしたんだ」

 「血?」俺と日比野の声が重なった。

 「最近ついた血じゃない。ずっと前からある、身体に染み込んだ血の匂いだ」向井さんの声からは感情が読み取れない。「シャーロック・ホームズ。これはどう思う?」

 向井さんは俺を見た。実際には見ていないのだろうが、はっきりと、こちらを見据えていた。

 「俺の憶測だけれど」俺は頭の中で浮かび上がったことをそのまま話すことにした。

 「あのお爺さんは、もしかしたら、犬を使って殺人をしているかも」

 「犬を使って?」日比野が声を上げた。「どうやって」

 「犬は人を殺せるんだよ。人間は弱点が多い。そこをつけば、小型犬でも可能性はある」

 「あまり想像したくはないけれど、ありえなくはない」向井さんはデイズの毛についた砂を払った。「それに、あのお爺さんからは、そういう気配がした」

 「気配って」

 「殺人をした人に会ったことは多分ないから分からないけれど、でも、心の奥でずっと何か、暗いものを抱えている、そういう気配を感じたんだ」

 俺の背中を汗が伝った。夏の暑さからくるものではないとすぐに分かる。さすがの日比野も、動揺しているように見えた。

 日比野の勘は、俺の推理よりもすごいじゃないか。


 ♫


 「それは大変な事件だな」

 大学から帰るバスの車内で隣に座る土井が、さらりと言った。彼は意外と空気が読めない。大変どころではないのだ。

 「日比野と関わってからいろんなことがあったけれど、ここまで露骨な事件は初めてだよ」

 「でも、まだ殺人が起こっていると決まったわけではないだろ」

 「そうだけれど、そうとしか思えなくて」

 「シャーロック・ホームズは思い込まない」

 「俺は現代のシャーロック・ホームズだから、思い込むよ」

 「バスに乗ると、あれを思い出す」

 俺の真剣な相談をスルーし、土井は言った。土井のスルースキルは空気を読まないことは既に存じているので、俺は土井の話に合わせることにした。「あれって?」

 「二年前のあの事件の犯人と、日比野が口喧嘩をしたやつ」

 「あれか」俺は思い出して、少し笑った。

 「あいつ、あのあと本当に寝たから、結構、引いた」

 「日比野は嘘をつかないよね」

 「いい意味でも、悪い意味でもな」

 「わお、ゴールデンレトリバーみたいだ」

 「本人に言うなよ。あいつ、それ言うと拗ねるからな」

 バス停に到着した。俺と土井が下車すると、バス停名前に日比野が腕を組んで立っていた。

 「日比野? どうした?」

 「来たな。行くぞ」日比野はスマホをしまい、俺と土井の腕を掴んだ。「向井が待ってるんだよ」

 日比野は俺たちの手を引いて歩き出した。

 「向井って誰だ」土井は思ったより冷静だった。日比野に振り回されるのは慣れたんだ、と言わんばかりの表情だった。

 「日比野の友達だって」

 「どこに行くんだ、こんな時間に」

 「公園」

 おおかた察したのだろう。面倒くさい、と言わんばかりに土井の溜息が聞こえた。

 

 ♫


 時刻は夜の九時を過ぎて、空は暗くなっていた。

 「やあ。日比野と、柊木君?」

 向井さんは公園のベンチに座っていた。「そっちは、土井君? はじめまして。噂は予々かねがね

 「向井さんでしたっけ」土井は向井さんの足元で眠るデイズに一瞬、目をやった。「はじめまして」

 向井さんは微笑み、「みんな敬語使わなくていいよ」と言った。

 「それで、今日はなんで集められたんだい? 僕、なにも聞いていないんだけれど」

 「あの爺さんに直接話を聞くんだよ」日比野が向井さんの隣に座った。「この時間なら、出歩いてるだろ」

 「話って、本当のこと教えてくれるわけないでしょ」

 「僕もそう思う」

 「やってみなくちゃ分からねえだろ」

 「やってみなくても分かることってあるよ。犬はチョコレートを食べられないし、ジョン・レノンの視力は戻らない」

 「屁理屈ばかり言いやがって」

 「とりあえず、ホームレスの爺さんを待てばいいんだな?」

 土井はもう状況に慣れたようで、日比野の隣に座った。おまえも座っておけ、と顎でしゃくった。俺は仕方なくベンチに座った。

 「クロスロード伝説は知ってる?」

 ふいに、向井さんが口を開いた。

 「ロバート・ジョンソンか」

 真っ先に反応したのは、日比野だった。

 「なんだっけ。それ」

 「ロバート・ジョンソンは、悪魔に魂を売って、天才的なギタースキルを手に入れたんだ。彼はどんな曲でも弾ける、天才ギタリストになった」

 「ずるいよな」日比野が子供のような感想を述べる。

 「でもその後、ロバート・ジョンソンは二十七歳で毒殺される。悪魔との契約通り、命を奪われたってわけだ」土井が言った。

 「まあ、諸説あるけれど」

 「その話が、どうかしたのかよ」

 「君達だったらどうする? もし目の前に悪魔が現れて、命と引き換えに天才的な演奏スキルを授けよう、と言われたら」

 「お断りだな」日比野はすぐにそう言った。

 「そうくると思ったよ。ちなみに、理由は?」

 「俺のギターはすでに、上手い」

 日比野があまりに真剣な顔で言うものだから、俺たちは声を立てて笑った。

 「確かにそうだ。日比野のギターは天下一だよ」

 「俺も日比野と同じ意見だな」まだ笑いが収まりきっていない土井が言った。「俺も契約はしない」

 「じゃあ俺もしないよ」

 「じゃあ君達は、ロバート・ジョンソンにはなれないね」

 「いいんだよそれで」日比野が歯を見せた。「俺たちは俺たちだからな」

 向井さんは笑った。「安心したよ」

 デイズが欠伸をした。俺と土井はそれを見て、噴き出してしまった。日比野にそっくりだった。

 「僕は少し前に、君達のライブを見に行ったことがあるんだ」向井さんが言った。「見に、というか、聴きに、だけれど」

 「え」俺は目を丸くした。「そうなんだ」

 「そう。確か、半年くらい前だったかな」

 「俺が誘ったんだよ」日比野が口を挟む。

 「あの時の君達は、放火事件を解決した名探偵バンドって言われていたよね」

 「あれは、参ったな」土井が笑う。「そういうレッテルが貼られてしまっていたから、ちゃんと俺たちの音楽が伝わっているか不安だった」

 「僕が行ったそのライブは、色んなバンドが出ていたんだけれど、君達が一番格好良かった」

 「だろうな」日比野はすぐに言った。「だって俺たちが一番格好いいからな」

 「無駄に謙遜しないのは、日比野のいいところだと思う」向井さんは笑った。「これをずっと伝えたかったんだ。土井君と柊木君に、ちゃんと」

 「それは、嬉しいね」

 「また聴きに行くよ」

 「ぜひ」俺は笑った。

 俺たちが公園に来てから二十分ほど経ったが、まだ老爺は現れない。日比野が諦める気配はなかったし、ここまで待って今さら帰る気にもならないため、付き合うことにした。多分、土井も同じような考えなのだろう。

 「おい」

 声がして顔を上げると、目の前に数人の若い男が立っていた。若者たちは皆、髪の毛を赤や金色に染めており、派手な服を着ていた。そういえばあの老爺は、変な輩がうろついていると言っていた。きっと彼らがそうなのだろう。

 「なにか用?」向井さんは笑顔を絶やさない。

 「金、持ってるだろ。出せよ」

 「持っていないよ」

 「嘘つくなよ」

 「なんだおまえら。高校生か?」日比野が立ち上がった。「こんな夜に出歩くんじゃねえよ」

 俺たちが言えることではないが、日比野という男の性格はよくわかっているので口にはしない。言っても聞かないからだ。

 「うるせえよ。命令するな。はやく金出せって」

 「人にものを頼むときには、それ相応の態度があるだろうが」

 「なに言ってるんだよ。頼んでるわけじゃねえよ」

 「じゃあなんで正月でもねえのに若者に金を渡さなきゃいけないんだ」

 若者たちは明らかに不機嫌だった。今までこうやって金を要求して、突っかかってくる大人はいなかったのだろう。

 「なんなんだよ、この犬みてえなの」若者の一人が苛立ちを露わにしながら言った。日比野は「誰が犬だ」と怒っている。

 「おい、おっさん。痛い目見たくなかったら、はやく出せって。それとも俺たちを殴るかよ。そしたらおまえは警察行きだぜ。この場を丸く収めたいのなら、俺たちにお金を払うのが賢明で倫理的だろ?」

 若者の一人が言った。やけに口が回るな、と俺は感心する。こうやって今までも大人から金をまきあげてきたのだろう。だが日比野は普通の大人ではないのだから、今までのやり方で通用するはずがない。

 「大人がみんな倫理的だと思うなよ。だいたいおまえたちは、集団にならないと何もできないのか?」

 「はあ?」

 「子ども単体はチャイルドで、複数形になるとチルドレンになるんだ。つまり別物なんだよ。おまえたちチャイルドは、チルドレンって別の生き物にならないと、弱くて何もできないんだ」

 「なんだよ、こいつ」若者は吐き捨てるように言った。明らかに怒っている。

 「日比野、そこらへんにしておけ」

 土井が日比野の前に立った。「いくら欲しいんだ?」

 若者たちは顔を見合わせ、にやりと笑ってこちらを見た。

 「金をもらうのはやめた。気分じゃなくなった」

 うわ、と俺は口にしそうになる。面倒なことになった。

 「向井さん、逃げられる?」

 「僕は大丈夫だけれど」

 ごん、と鈍い音が聞こえた。音の方に振り向くと、土井が頭を押さえてうずくまっていた。

 「土井」思わず叫んでいた。

 若者の一人が、手にバットを握っていた。あのバットで土井を殴ったのだと俺はすぐに理解した。

 夜だからか、人通りも少ない。若者はにやにやした表情のまま立っている。

 「どうする?そのシャツとか高そうだけど、それくれるなら許してやってもいいよ」

 「許すも何も、こっちはただベンチに座っていただけだぞ」と日比野。

 「それでも俺たちに歯向かったからなあ」

 「柊木君」向井さんが囁いた。「あそこに明かりがあるよね? それ、壊してくれないかな」

 「え?」

 向井さんはベンチの屋根に付いている電球を指差した。この電球がなくなれば、この付近に灯りはゼロになり、俺たちは何も見えなくなってしまう。

 いや、それでいいのだ。

 俺はすぐに日比野の腕を引っ張って電球のあるほうへ移動した。日比野が驚く声が聞こえる。

 「あいつら逃げたぜ」

 若者は笑いながらこちらへ向かってきた。

 バットが振り下ろされた瞬間、俺はしゃがんでそれを躱した。次の瞬間、ガラスが割れる音が耳に刺さった。若者のバットが当たり、電球が割れたのだ。

 辺りは灯りひとつない完全な夜になった。

 「おいおまえ、なにしてるんだよ」

 「見えねえじゃねえかよ」

 「おい、逃げんなよ」

 若者の声がやかましく響く。

 「向井さん」

 俺が叫んで数秒経つと、若者の一人の叫び声が聞こえた。「バットが盗られた」

 「なにやってるんだよ」若者の怒鳴り声が響く。

 「わかんねえ。気づいたら盗られてた」

 「柊木君、作戦成功だ」

 向井さんが俺の耳元で言った。僅かな月明かりで、向井さんの手に若者のバットがあるのは確認できた。目の見えない向井さんには、明かりがあろうがなかろうが関係ないのだ。この暗闇で最も有利なのは向井さんだ。

 「くそっ! おい、そこにまだいるよな!」

 若者が怒鳴った。その時、犬の鳴き声が聞こえた。一匹ではない。十数匹いる。

 若者たちはその唐突に聞こえた鳴き声に動揺していたため、その犬たちがこちらに向かってきていることに気が付かなかったのだろう。十数匹の犬は、若者たちに飛びかかったのだ。

 犬は大型犬から小型犬まで多種多様で、それぞれが暴れる若者を噛んだり踏んづけたりして押さえつけていた。懐中電灯の明かりがそれを照らす。

 「大丈夫か」

 誰かの声がした。真っ先に反応したのは、向井さんだった。

 「もしかして、あのお爺さん?」

 懐中電灯を持った老爺が俺たちのそばに駆け寄ってきた。「怪我はないか?」

 「俺は大丈夫です。土井は」

 「ああ、大丈夫だ」

 土井はゆっくりと起き上がり、「こぶができた」と頭をさすりながら不満げに言った。

 「この犬たちって」

 「実は、犬が消えるって事件の犯人は、わたしなんだ」

 「やっぱり」向井さんが言った。「そんな気がしていましたよ」

 「なんだ、ばれていたのかあ」

 「なんで犬を攫ったんですか?」

 俺が尋ねると、老爺は恥ずかしそうに笑った。

 「こいつらを懲らしめるためさ」

 「こいつら?」

 「この若造たち、最近ここら辺で、ずっとこうやってカツアゲやら暴力沙汰やらを起こしてるんだ。わたしはどうにかしてこいつらを止めないと、って思ったんだけれど、わたしももう歳だから。犬の力を借りようと思ったんだ」

 「犬の力」俺はぽかんとしていた。

 「虐待されている犬を選んで、攫って、手伝ってもらっていたわけだよ」

 「じゃあ、血の匂いというのは?」

 訊いたのは土井だった。老爺は一瞬きょとんとした表情になったが、すぐに微笑んだ。

 「犬たちは人間を怖がっている。虐められたんだから当たり前だ。わたしは大切にしてやりたかったんだが、その過程で噛まれることも少なくなかったんだよ。きっとそれじゃないかな」

 俺はなんだか、ほっとしたような、がっかりしたような、変な気分になった。深読みしすぎていたというわけか。変に思考が交差してしまっていたのだ。

 「お爺さんは、この少年たちを懲らしめるために、犬を集めたってことですか?」

 俺は確認のため、もう一度尋ねた。

 「そうだよ。恥ずかしい話だけどね」

 公園の向こうから、日比野の声がうっすら聞こえた。警察官を連れた日比野が走ってくる様子が思い浮かんだ。

 「シャーロック・ホームズ、君の推理は外れたみたいだね」

 向井さんは可笑しそうに言った。なんだか悔しかった。

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