スリー

白鯨

ロック

 スタジオに入ると、キーボードの前に青年が立っていた。柊木ひいらぎだ。

 「土井どいか。日比野ひびのに会った?」柊木はイヤホンを外してこちらを見ると、いつもの笑顔を見せた。

 「会ってない。遅刻だろ、どうせ」

 「あいつの遅刻グセ、治らないものだね」柊木は苦笑した。「どうやったら治るんだろうな」

 「それは遅刻グセか? それとも、あのやかましい性格のことか?」

 「自分がいかにやかましいか、って話題で、小一時間は騒げるからね、日比野は」

 「尊敬するよな」

 「しないけど」

 「セーフ」

 スタジオの扉が大きな音を立てて開き、日比野が現れた。八重歯と茶髪が印象的で、犬、それもゴールデンレトリバーを思わせる外見をしている。ただし、本人はそう言われるのが気に入らないらしい。

 「アウト。十分遅刻だ」

 日比野は下唇を尖らせた。「細けえな。十分なんか誤差だろうが」

 「カップラーメンを十三分放っておくようなものだぞ。ふにゃふにゃになる」

 「それはそれで美味いだろ、たぶん」

 「日比野、遅刻したら、ごめんなさいだよ」柊木が人差し指を日比野に向けた。日比野さんは苦々しい顔をして「悪かったって」と口を尖らせた。

 そのセリフを聞くのは、今年に入ってから今日で二百四回目だ。日比野は背負っていたギターケースを丁寧に床に置くと、両手を前に出し、「わけがあるんだよ。聞いてくれよ」と弁解のポーズをとった。このあとに苦しい言い訳が続くのまでが、彼の遅刻のテンプレートだ。


 ♫


 俺と柊木、日比野は、同じバンドのメンバーだ。今日も来月に行われるイベントの練習としてスタジオに集まっている。柊木はボーカル、ギターを担当し、日比野は二人目のボーカル、ベースを担当している。俺はというと、二人の後ろでドラムを叩いている。

 練習が終わってスタジオを出た後、なんとなく、飲もうというノリになり、俺達はコンビニに寄って酒を買い、日比野の家に向かった。

 「夜だと、虫がいていやなんだよな」日比野が顔をしかめた。日比野が住むアパートの階段の前には街灯があり、その灯りのもとに蛾などの小さい虫が集まっている。

 階段をのぼり、日比野の部屋に向かう。今は夏が始まりかけた時期で、夜はまだ少し冷える。

 「日比野、部屋綺麗?」と柊木。「前に土井に片付けてもらって、もう汚さない! って言ってたよね」

 「言ったかそんなこと?」

 「大声で」

 「綺麗に決まってるだろうが」俺たちは日比野の部屋の前に立った。「見てろよ」

 金属の扉を日比野が開く。1Kの狭い部屋の中はかなり散らかっていた。柊木は、「見てたよ」とだけ言った。

 床に散らばる荷物を躱しながら部屋に入り、俺は1 Lの部屋の真ん中に置かれたローテーブルの前に座った。柊木も隣に座り、コンビニのビニール袋から酒を取り出して一つずつテーブルに並べていった。

 日比野がテレビをつけた。騒がしいバラエティ番組が映り、この間放送された大会で優勝し話題となった芸人の鋭いツッコミが入る。

 「あ、日比野、これ高いスピーカー」

 柊木がテレビの近くに置いてあった黒い箱を指差した。漫画本くらいのサイズだが、分厚く重量感がある。

 「触るなよ。バイト代全部それになったんだぞ」

 「計画性がないな」

 「人生に計画はいらねえよ」

 「主語がでかい」

 柊木は買った酒を俺と日比野に分配し始めた。俺は受け取った缶ビールを開けた。炭酸ガスが缶から飛び出す音がする。

 「ビールってそんなに美味いかよ」日比野は俺の飲んだビールを見て顔をしかめる。

 「美味いから、飲んでいる」

 「ふうん」自分から聞いておいて、もう興味をなくしたようだった。「飲み過ぎんなよ」

 「『ロック』なんだけどさ、今度のイベントのセトリに入れる?」

 『ロック』は、現在進行形で俺たちが制作している楽曲だ。なお、俺たちの曲の作詞・作曲は殆ど柊木が行っている。

 「俺は構わないが、完成、間に合うか?」

 俺が言うと、日比野はテーブルの上の枝豆を掴み、「間に合うだろ」と断定した。まだ調整過程なのに、その自信はどこから来るのだ。

 放送されていたバラエティ番組が終わり、ニュース番組が始まった。アナウンサーが読み上げた最初のトピックスは、最近この近所で連続して起こっている放火事件についてだった。どうやら今日、三件目の事件が起こったらしい。

 「放火だって。あぶないね」

 柊木が言った。柊木の顔はすでに少し赤い。

 「人間ってのは、面倒なことするんだな」日比野は床に落ちた枝豆の房を拾ってゴミ箱に入れた。「消防士の仕事を増やすだけだってのに」

 「消防士が確実に消化できるとは限らないだろ」

 「消防士をなめるんじゃねえよ。俺の小さいころの将来の夢は消防士だったんだぞ」

 「それは悪かった」

 俺の言葉に、柊木が子供のようにけたけたと笑った。柊木は酒が入ると表情筋が緩みがちになる。

 「この放火事件さ、五年前の放火事件の犯人と同一犯だったら面白いよね」柊木がふと言った。

 「五年前?」

 「ちょうど五年前にあったじゃない。近畿地方の、連続放火事件。俺、あれで親戚の家が燃えちゃったからよく覚えているよ」

 思い出した。五年前、一ヶ月ほどニュースでちらほら放送されていた連続放火事件があった。大した被害もない小さな事件だったわりには犯人がなかなか捕まらず、マスコミがささやかに盛り上がっていたのをなんとなく覚えている。だが、ほとんど話題にはならなかった事件だ。俺も柊木の親戚の家が事件に巻き込まれたから覚えていただけだった。

 「手口が似ているんだよね。ほら、ゴミ袋をわざわざ運んで燃やすところとかさ」

 ニュースキャスターが読み上げた情報には、「犯人は近場のゴミ捨て場からゴミ袋をわざわざ取ってきて、それに火をつけている」とあった。確かに、人間というのは面倒なことをするものだ。

 「あの事件の犯人、もう釈放されてるんじゃないかな。死人が出なかったから、刑期は軽いはずだし」

 「それは怖いなー」

 「思ってないなら言うなよ」

 「というか、まだ三件しか起こっていないのに、同一犯だと決めつけるのは無理があるだろ」

 柊木は微笑んだ。「俺は巷で現代のシャーロック・ホームズって呼ばれているんだよ。俺の推理に間違いはない」

 「初耳だ」


 ♫


 その日は深夜まで日比野の家で飲んだ。俺は終電に間に合ったが、現代のシャーロック・ホームズこと柊木は日比野の家に泊まったらしく、明け方に日比野から柊木の寝顔の写真が送られてきた。別にいらないし、カップルのようなことをしているのには呆れた。

 翌日は太陽が本領を発揮し、これでもかというくらいの快晴だった。俺は大学の構内にあるベンチに座り、朝食のパンを食べ始めた。昨日は帰ってからすぐ寝てしまい起床も遅くなったため、朝食をとるのを忘れていた。隣には日比野が座っており、やけに真剣な顔でスマホを見ている。赤いスマホケースがやけに派手だ。

 「何やってるんだ、そんな真剣に」

 「昨日、柊木と調べたんだよ」

 「なにを」

 「昨日話した放火事件あるだろ。あれだよ。面白いんだぜあれ」

 「不謹慎だな」俺は大した興味がないので流そうと思ったのだが、日比野はスマホの画面を俺の目の前に突きつけた。「みろ」

 スマホの画面にはマップアプリで表示した地図のスクリーンショットが表示されており、ところどころに赤いマルが書いてあった。

 「これが最近の放火事件が起こった場所。で、こっちが五年前の事件現場」

 日比野が画面をスワイプし、別の画像を表示した。画面にはまたもやマップのスクリーンショットが表示されている。こちらには青いマルが書かれていた。

 「似てるな」

 赤いマルがつけられた建物と青いマルがつけられた建物は、酷似している。場所こそばらばらで赤いマルはまだ青いマルの数に足りていないが、それでも似ていると俺でもわかった。

 「だろ? 似てるんだよ。五年前の事件と、今回の事件」

 「だからなんだっていうんだ」

 俺は言いながら、いやな予感がしていた。

 「俺たちで犯人を捕まえようぜ」

 日比野は自信満々に言った。俺の予感は的中した。

 

 ♫


 柊木から招集がかかり、俺と日比野は大学のホールの奥の部屋に向かった。この場所はホールを通らないと見えないため、講義をさぼるにはうってつけの隠れ場所として、大学内で有名なのだ。

 「俺の推理によれば、次の事件は、今夜だよ」

 柊木は俺たちを置いてあったテーブルに座らせ、人差し指を立てて言った。俺は特に乗り気ではなかったものの、「証拠は?」と尋ねた。

 「まず、五年前の放火事件が起こった日にちについてだけれど」柊木はスマートフォンでカレンダーアプリを表示した。「一件目は六月六日、二件目は六月十日、三件目は六月十七日」

 「規則性がない」

 「その通り」柊木は指をぱちんと鳴らした。「で、今回の放火事件の日にちは、一件目は六月六日、二件目は六月十日、三件目は六月十七日なんだ」

 「え」

 「事件は、五年前と同じ日、同じ時間帯に、似通った場所に起こっている。これは偶然かい? ワトソン君」柊木は俺を指差した。

 「俺ですか」

 「そうだよ」

 ワトソンとは確か、ホームズの助手の名前だった気がする。

 「その通りに推測すれば、四件目の事件が起こるのは今日なんだって。五年前、四件目が起こったのが今日だからな」日比野が興奮気味に言った。

 「警察は気づいているのか?」

 「さあね」

 俺たちは柊木が推理した事件現場に向かうことになった。俺は帰りたかったが、日比野と柊木だけではどうも心配なのでついていくことにした。まさか本当に事件が起こることはないだろう、と思っていたのも事実だ。

 

 ♫


 現場となるはずの場所は、日比野の家からバスで一本の場所にある不動産会社のビルだった。

 バスの中は少し混んでいた。会社員らしき人物が数人吊革につかまっていて、優先席には赤ん坊を抱き抱えた女が座っている。なんとも普通の、バス車内の光景だ。日比野は運転手のすぐ後ろの、少し高い場所にある座席に座った。馬鹿と煙はなんとやらだ。俺と柊木は日比野の側に立った。

 日比野が座ったままうとうとし始め、バスが次の行き先を示した時、優先席の赤ん坊が泣き始めた。

 「元気だね」柊木が小さい声で言った。「そうだな」

 母親らしき女が申し訳なさげに頭を下げ、赤ん坊をあやし始める。赤ん坊はかなりのボリュームで泣き喚いてるが、日比野は寝ていた。

 その時、大声がした。「うるさいんだよ」

 見ると、黒い服を着た中年の男が母親に向かって激昂していたのだ。「母親なんだから、はやく泣き止ませろよ」

 母親はすみません、すみませんと何度も頭を下げる。男がヒステリックに怒鳴るたびに、赤ん坊の泣き声は大きくなっていく。

 バス車内にいる誰もが、見て見ぬふりをしていた。事を荒立てたくないのだろう。

 「こっちはわけがわからないことがあって、むかついているんだよ。なんなんだよ、どいつもこいつも」

 男はかなり苛立っているようで、いまにも母親を殴りそうな勢いだった。これはまずい、と思い、俺は柊木の肩を叩く。柊木はすぐに頷き、俺たちは男のほうへ一歩足を踏み出した。

 「おまえ、うるせえぞ」

 聞こえたのは、日比野の声だった。日比野はいつの間にか目を覚ましており、男のほうへ歩いていく。

 「なんだよ。ガキが」

 「迷惑なんだよ。おまえは大人だろうが」

 「こっちだって迷惑してるんだよ。ここにいる全員、泣き声がうるさいって思ってたはずだ。だから俺が注意してやっているんだ。元はと言えばこいつらがうるさいせいだろ? そうだろ?」

 男は母子を指差して早口でまくし立てた。「おまえたちの友人、迷惑すぎるぞ」と、他の客が思っているのが伝わる。俺と柊木は顔を見合わせ、元いた場所に戻った。口論となれば、日比野が負けるはずないからだ。

 「俺は、なにか間違ったことを言ってるのか?」

 男はかなり興奮しているようで、唾を飛ばす。

 「言ってないな」日比野はすぐに言った。「おまえの言っていることは正しいよ。確かにそこの子供はうるさいな」

 男は余裕の笑みを浮かべ、何やら言葉を発したが、日比野は男の言葉を遮るように続けた。

 「だけどな、俺が寝られないだろうが」

 「はあ?」男は目を丸くした。

 「俺は赤ん坊の喚き声なら気にならないけどな、大人の怒鳴り声は不快だから寝られないんだよ。正しければ、他人の安眠を妨げていいのかよ」

 「なんだよそれは。理屈になってない」

 「だから何だよ。理屈がそんなに大事かよ。こっちは昨日、夜まで酒を飲んでたんだよ。眠いんだ」

 「知らねえよ。それとこれは関係ないだろ」

 「世の中の全ては、関係し合ってできているんだよ。俺とおまえが出会ったことだって、何かと関係してるんだ」

 「だから、何なんだよ」

 「おまえこそ何なんだ。いい歳して、環境音が少しでかいくらいで騒ぐな」

 男は今や日比野という屁理屈モンスターを目の前にして先程までの勢いを失ってしまったようだった。意味のわからない理屈や持論で人を困らせる大会があれば、日比野は間違いなく優勝するだろう。

 バス停に到着する。男は日比野を睨んで舌打ちをし、逃げるようにバスを降りていった。

 「あの」母親が日比野に声をかけた。「ありがとうございました。本当に、助かりました」

 「まあ、俺が眠かったからな」

 この男は、なんなのだ。心底そう思った。


 ♫


 放火事件は、五年前の放火事件と同じ日付、同じ時間帯、そして放火は五年前と似た場所の近辺で起こる。同一犯としか思えないが、現代のシャーロック・ホームズの異名を持つ柊木はさすがといったところか、憶測で断定しなかった。

 「俺は最近勘がいいんだよな」

 放火がされる予定の現場に向かう途中で、日比野が言った。日比野が喉が渇いたと騒いだため、わざわざコンビニに立ち寄り、水を買ったあとだった。

 「野生の勘、みたいなもの?」と柊木。「鼻が効くんだ、日比野は」

 「犬みたいに言うなよ」

 角を曲がり、商店街に入った。商店街の中は居酒屋や古着屋、レンタルCDショップなどが建ち並んでいる。店はどれも古臭く、人通りは多くない。

 小さく歌が聞こえた。辺りを見て、日比野の鼻歌だと気づいた。これから放火事件の現場に行くかもしれないというのに、呑気なものだ。

 「それ、誰の曲だったっけ」柊木が尋ねた。

 「ゴーゴーバニラズ」

 「好きだよね」

 「かっこいいからな」

 「異論はない」

 「音楽は、散弾銃」ふいに、日比野が呟いた。「散弾銃?」

 「刺さるやつには刺さるし、刺さらないやつには刺さらない」

 「うまいな」

 「俺は、無差別テロの音楽を作りたいんだよ」

 日比野の横顔が言った。

 「へえ。それ、どういう意味?」

 「無差別に、大勢の人にでっかい影響を与える音楽」

 「無茶だ」柊木は笑った。「でも、音楽だけじゃないよね。小説だって映画だって、同じだ。言葉だってそうじゃない」

 「言葉か」

 「俺たちの銃弾の種類が、音楽ってだけなんだよ。人によって銃弾は違っている」

 「まあ、そういうことだ」

 ふと、火の匂いがした。

 後ろを振り向くと、商店街の中にある路地から、煙が登っていた。

 「おい、日比野、柊木」俺は二人の名前を呼んで、そのまま走り出した。路地に飛び込むと、捨てられていた数個のゴミ袋が焚き火のようにぱちぱちと燃えていた。追いかけてきた日比野と柊木が軽く悲鳴を上げるのが聞こえて、俺は目を見開いた。

 放火だ。これはあの事件の、四件目だ。俺はなんの根拠もないのに、そう確信していた。

 「日比野、水。買ったやつがあっただろ」

 俺は少し声を荒げていた。日比野に手渡されたペットボトルの水を勢いよく、火元とみられる場所にかけた。

 幸い火は燃え広がっておらず、ペットボトルの水を何度かかけると直ぐに鎮火できた。柊木は既に通報を済ませていた。

 「びっくりしたな」日比野が子供のような感想を述べた。

 「自然発火、って感じじゃなかったね」

 柊木が燃えて黒ずんだアスファルトの地面に目をやる。

 「まるで現代のシャーロック・ホームズだな」

 「だから、そう言ってるじゃん」

 「これで確定だろ。柊木の推理は間違ってない」

 日比野が胸を張った。

 「俺の推理の通りに事件が進むなら、次の放火は明後日の夜だ」

 「明後日」

 「場所は、多分」柊木がスマホを取り出した。「五年前の五件目の放火、最後の事件だね。それが、古いアパートのゴミ捨て場だったんだ。だから、この近くでそれに準ずる場所。その近辺」

 柊木が言い終わったとき、俺たち三人は顔を見合わせていた。「日比野の家」

 

 ♫


 五件目の事件が起こる日は、雨が降っていた。土砂降りというほどでもないが、小雨でもない。この雨で放火犯も諦めてくれればいいのに、と思った。日比野のアパートを囲む塀に寄りかかって傘をさし、俺たちは犯人が現れるのを待つことにした。

 「日比野、ギター置いてくればよかったのに」

 日比野の背中にはギターケースがある。邪魔そうだが、「これは俺の身体の一部なんだよ」と日比野が口を尖らせた。

 「なんでやったんだろうな」

 少しの間沈黙が続き、急に、日比野が呟いた。「なにを?」

 「放火の再犯だよ。犯人は何を思ってもう一度放火をしようって思ったんだ? しかも一回捕まったのに、同じやり方でだぞ」日比野は不思議そうに言った。「犯人は、頭が悪いのか?」

 「確かに、不思議だね」柊木のビニール傘が揺れる。

 「捕まった犯人の顔、どんなんだっけ」

 「ああ、見る?」柊木がスマホを取り出し、日比野に見せる。

 「家族構成も住所も晒されてるのか」日比野は顔をしかめた。「そこまでやるのかよ。暇だな」

 「仕方ないよ。罪を犯した者には、それ相応の罰が下るんだって。天網恢恢疎てんもうかいかいそにしてらさず、だよ」

 柊木のスマホを受け取り、俺もスマホに表示された記事を見た。左端に大きく顔写真が表示されている。その下には、彼の家族写真であろう画像と、中学生の弟の顔写真が記載されていた。確かに、彼に関わることはすべて調べられて、エンタメとして世の中に晒されている。それが罰だと、神は思っているだろうか。

 「おい」

 日比野の声が俺の指を止める。

 「あの、黒いやつ」

 日比野が指差した先には、ビニール傘をさした黒い服の男がいた。手に赤いトートバッグを持っている。

 「怪しいね」

 日比野のアパートの廊下には、さすまたが置いてある。俺たちはさすまたをすぐ取りに行ける位置に待機し、犯人を見つけたらそれを使って取り押さえるつもりだった。俺と日比野は走り出す準備をする。警察を呼ぶことが最善だが、そんなことを考える余裕はなかった。

 次の瞬間、黒い服の男がトートバッグを触り、中からライターを取り出した。そしてそれを合図に、俺と日比野は走り出した。

 それからは一瞬だった。日比野がさすまたを掴むと雨で濡れたアスファルトに男を倒し、ライターを奪った。地面にスライディングするように倒れた男の帽子が地面に飛び、男の動揺と苦痛の表情がアパートの壁に激突する。よく見ると男はかなり若いようだった。高校生にすら見えた。

 「あ」

 うごめく男の顔を見て、俺は思わず声を出した。見覚えがある。さっき見たばかりの顔だ。「おまえだったのか」

 「止めないでくれ」

 男の絶叫が響き、俺は思わず怯んでしまった。

 「止めないわけないだろ」日比野がライターの蓋を閉めて言った。「おまえがこんなことするんだったら、俺は止めるぞ」

 雨に濡れて、日比野の前髪はぺしゃんこになっていた。男はうずくまって泣き出した。「止めないでくれよ」

 「なんでこんなことしたの」

 走ってきた柊木が男に傘をさした。通報はすでに終えているようだった。「言える?」

 男は顔を上げない。腕で目元を覆い、泣いて呻いている。

 「君は、五年前の放火犯の、弟だよね」

 現代のシャーロック・ホームズは、冷静に、淡々と言った。「どうして、お兄さんと同じ道を」

 「兄貴は犯人なんかじゃない」

 また、男の絶叫が響いた。今度は、前よりもずっとはっきりしていた。「兄貴は、無罪だ」

 「犯人じゃないって」日比野の目が丸くなった。濡れた髪も相まって、風呂上がりのゴールデンレトリバーに見えた。「どういうことだよ」

 「俺と兄貴は、五年前の今日、たまたま放火をしている犯人の顔を見た。犯人を追いかけた兄貴は、そいつに犯人に仕立て上げられたんだ。俺には、危険だから来るなって、自分だけで追いかけていって、それでだ。兄貴は、その場にいた放火犯を捕まえようとしただけだったんだ」

 「だから、君は」

 そういうことか。俺はすべてを理解した。「おまえは、犯人をおびき寄せるために、犯人と同じ放火をしたのか」

 俺が言ったとたん、「何してるんだ」と鋭い声が聞こえた。振り返ると、一人の警察官が走ってくるのが見えた。

 「さっきここで通報があった。いったん話を聞かせてくれ」

 警察官がそう言って俺に手を差し伸べた、次の瞬間、日比野が思い切り、泣いている男の腕を引っ張った。男は勢いのまま立ち上がってしまい、目を丸くしている。

 「覚えてるんだろ。そいつの顔」

 日比野が男の頬を掴み、男の顔を無理矢理、警察官に向けた。「よく見ろ」

 警察官はぎょっとし、硬直した。

 「こいつだ」

 男がぼそりと放った声が、短距離走のピストルの音かのように、俺の頭の中で鳴り響いた。すかさず俺と柊木は目の前の警察官——改め、五年前の真犯人の身体を、水溜まりの上に叩きつけた。

 犯人はうめき声をあげ、次に腕を振って俺の肩を殴った。俺は痛みに驚いて手を離してしまい、そのまま突き飛ばされて塀にぶつかった。同時に柊木も地面に倒れる。犯人の顔をよく見ると、見覚えがあった。先日バスの車内で騒いで、日比野と口論になったあのヒステリックな男だ。

 あの時、この犯人も俺たちのように、放火の現場へ行くところだったのか。それを日比野に邪魔され、途中で下車するはめになった。つくづく不憫だな、と思わざるを得ない。

 「おまえたちか。俺を真似してるのは」

 犯人が激昂し、拳銃を取り出した。「どういうつもりなんだ」

 「まじか」

 犯人の手に握られた拳銃を見て、俺の口をついて出たのはそんな言葉だった。柊木も目を丸くして拳銃を見つめている。

 「邪魔ばかりしやがって」

 拳銃が、棒立ちのままの男に向いた。その瞬間、日比野がギターケースを放り投げた。その音につられて犯人の顔が日比野に向く。

 「偽物だろ」日比野は言った。「そのピストル」

 「本物だ」犯人は叫んだ。

 「一つ聞いていいか?」

 「無理だ」

 「五年前、なんで放火した?」

 「理由なんかねえよ」

 「理由なんかないのか?」

 「そう言ってるだろ」

 男がそう叫んだ次の瞬間、日比野は、この場にいる誰もが予想もしなかった行動をした。犯人の前まで歩いていき、犯人の手にある拳銃の銃身部分を、右手で掴んだのだ。思わず俺は「馬鹿」と洩らしていた。

 日比野の滅茶苦茶で非常識な行動に気を取られていた所為で、犯人の背後にいた存在に、俺も犯人も気づかなかった。

 背後に立った男は手に持った小さいスコップを振り下ろし、犯人の紅潮した顔を後ろから殴打した。犯人は地面に倒れ込み、動かなくなった。

 すかさず柊木が犯人に駆け寄り、首元を触る。「大丈夫、気絶してるだけだよ。多分」お医者さんではないから分からないけれど、と苦笑した。

 男は自分でも何が起きたか分かっていない様子で、「ああ、そう」と言って立ち尽くしている。

 日比野は埃を触るように人差し指と親指で拳銃を掴んだ。「危なかった。多分本物だよな、これは」

 「本当に、なんなんだ。日比野は」

 「俺は俺だよ、土井」

 「知ってるよ」

 「これ触るか? 意外と重いぞ」

 「触らない」

 先程まで男が持っていた赤いトートバッグが濡れた地面に雑に置かれ、俺たちと同じく雨に打たれていた。犯人を殴ったスコップはきっとあの中に入っていたのだろう。

 「これで、君の作戦通りだ」柊木が男に言った。表情は笑っていた。「中々やるね」

 男は地面に倒れて涎を垂らす犯人を見て、口を開けたままでいた。やがて腰を抜かしたように、濡れた地面に尻をついた。そして何を思ったのか、次いで日比野が男の隣に座った。

 数十秒ほど経った頃だろうか。雨の音をくぐり抜けるようにして、俺の耳に歌が聞こえた。日比野の声だ。俺は日比野のほうを見る。

 俺たちの『ロック』だ。相変わらず、綺麗な歌声だった。

 日比野の隣に座る男は、今度は静かに、泣いていた。いや、泣いていないのかもしれない。彼の頬を流れる水は、雨なのだ。俺はそう思うことにした。

 音楽は散弾銃だ。今、俺たちの放った散弾銃は、一発だけ彼に命中した。これではピストルの音楽だな、と、そんなことを考えているうちに、パトカーのサイレンが、雨の音よりも大きく聴こえた。

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