第3話


Ep.3


君にあってから一週間。何もしないで生活するには勿体無いくらいの広い部屋に一人ぽつんと暮らし始めた。持っていくものは正直何もなかったが、一番最初にとったトロフィーとお気に入りの楽譜たちを自然と段ボールの中に入れていた。それもとても大切そうに。この家に来て数日後先生から一台の電子ピアノが届いた。かわいらしい封筒に入った手紙には

“また、弾きたくなったらサラちゃんの音を世界に響かせて。”

一度クシャクシャにした手紙をパサっと投げ捨てては先生の顔が浮かんできてもう一度拾い直す。端っこにピアノを置き、あたかも物置と同じように椅子にトロフィーと楽譜を置いてはピアノの存在を少しだけかき消した。

家は昔一度だけ数ヶ月間住んでいた街の駅のタワーマンションにした。特にこの街に思い出があるわけではないが今まで住んだ街で一番好きな街並みと好きな香りがした。今と昔をごちゃ混ぜにしたようなこの雰囲気がとても落ち着く。季節は夏本番に入ったようだった。どこに行ってもエアコンがついていて、街中はハンディファンを持っている人と日傘を差しながら急ぎ足で歩いている人だらけだ。また一人取り残されているような感覚に陥る。熱中するも好きなものも何もない私は世間の除け者のようだ。そんなことを考えていると携帯の画面が音と一緒に光った。

“いつものとこ。17時”

たった二言のメッセージで飛び起きて胸を躍らせお気に入りのワンピースに袖を通す。今熱中しているものは紛れもなく君だ。そんなことを考えているのなんて馬鹿らしくて、言えるはずもないが、なんて単純なんだろうか。自分のことなのに何も自分のことを理解していない。返信はしなくても平気なことに少し優越感を覚える。君との深まった溝はもうすぐそこまで埋まっているような気がしているから。パンプスを踵にかけて履いてみる。決まった約束がここまで楽しみなのも知らなかった。イヤホンを耳にかけ浮かれ足で家を飛び出した。

蝉の声が音楽の隙間から聞こえてくる。私と君の再会を祝福しているかのように。地下鉄から乗り継いで今となっては大好きな街へ向かうにつれ、電車の中から見える景色は時代を跨ぐ。一足早くドアの前に立って君の待つ街を待ち焦がれる。もう少し、あと少し。早歩きになってることくらい自分でもよくわかる、ついでに浮き足が立っていることも。まるであの頃の私に時が戻ったかのように、好きなことを好きと表現できていたあの頃。会いたいと影の一つもない笑顔で言えていたあの頃。また刻々とあの頃の私に戻っているような気がした。

「サラ。」

一週間待ち侘びていたあの声だった。君の声が低くなったことにいつまでも慣れない。ただずっと心地のいい声。手を上げて私のに微笑みかける君を見て、思わず頬がこぼれそうになるのを抑えるので精一杯だ。私が近づいてきたのを見てから、歩き出す君の後ろを駆け足になりながらついていくと止まって待ってくれている。一緒に横並びになって歩いても、君の長い足で踏み出す一歩が大きすぎて私にはとても大変だなんて。君に会えなかった一週間の話よりも昔話をすることの方がよっぽど楽しかった。それくらい私の人生には君が必要だということだった。今日、どこに行こうか。二人とも考えていることは一緒なはずなのに君は昔から私に一度意見を求める。そんな中出てくる答えはたった一つだ。

「土手。でしょ。」

夕日で伸びている君の影を辿りながら何も変わっていない街をゆっくりと眺める。二人で声を出しながらエアで弾いていたピアノのことも全部懐かしい思い出だった。賑わしかったこの街の空気がとても好きだった気がしていたが、大人になった今、時代と共にこの街の活気がなくなっていて、なんだが現実にないような街に思えるほど静けさに囲まれている。土手が近づくにつれ少し涼しくなるのは気のせいだろうか。坂道を登った先に見える川は私が育った街の象徴的な川であることに変わりはなかったのだった。パンプスを履いてきてしまったことを少し後悔する、それもお気に入りの靴だ。少し足が痛くなっているが君の後ろをぺったりと離れずにすすむ。階段を降りるときに自然に差し出してくれる右手に私の手を乗っける。今日くらい、そのくらいなら関係は何一つ壊れない気がした。夏だというのに暑さがだんだん和らいで水面がキラキラ光っているのをずっと眺める。子供の頃は石を投げてみたり、走り回ったりしていたがそんなことももうしない。ただ、君が隣で夕日に照らされていて、そんな君を私はずっと見つめる。なんだよ、と笑うかのように君は私のおでこをコツンと叩いた。

「翔太、何か話したいことあるんでしょ。」

待ち合わせ場所に君がいた時からなぜかそんな感じがした。何か言いたそうで、でも私を見て言うのを拒んでる顔だった。私に何も言わずに消えたときと同じ顔をしていた。あの日だけは私の話を遮ってまで話そうとしてくれた。結局君は私に何も言わずにフランスに旅立ってしまったけれど。

「俺、またフランス帰るんだ。」

想像していたことだったのに少しは予想がついていたことなのに、今度こそは笑って送り出すべきなのに君のことになるとなぜが真剣になってしまう。不愉快に私の髪は汗で顔につき、お気に入りのワンピースでさえもう剥いでしまいたい。生ぬるい風が私たちをずっと包み込んで離さない。

「いつ、いつ帰るの?」

一夏の夢でも良かった。自分の意思を肯定化するのにそう時間はかからなかった。君の存在が私の人生の助けになっていたことは確かだったし、君の姿が見えない間も君と過ごした時間をずっと思い出し、恋しんでいたのだから。行って欲しくない、まだ再開して2回しか会ってないのだもの。好きだと確信してからずっと君のことを考えながら生活していたというのに。それでも、私が君を引き止めるということは絶対にできないのだった。

「肌寒い景色と風が流れるようになったら。」

君の放つ言葉はいつもなぜか私を夢中にさせる。正確な日付が決まっていないのか、カウントダウンをしたくないのか、寂しい言葉なのには変わりないのに、なぜか引き込まれてしまう。すっと情景が浮かんできて、緑がうるさすぎるほどの葉っぱが秋色に染まることだとすぐわかってしまう。今年の夏はあとどのくらいなのだろうか。時間が止まって欲しいのに、そう願うことしかできない私はずっと無知で君の役になんて立てないのだった。君と一緒にいたいというただの願望一つで縛ることはできないから。

「だから、今日から毎日サラと過ごすことにした。」

急に君の口から出た言葉は私の予想をはるかに上回る言葉だった。私の意見を全く聞かずに君が物事を決めるなんて初めてのことで驚きが隠せない。君の眼差しは驚くほどに気鋭で誰もが吸い込まれてしまうほどの眼差しだった。今回君が日本に帰ってきた時に運命的に会えていなかったら、もう一生会えていなかったかもしれない。だから、君の言葉が少しだけ、いや驚くほどに嬉しかった。

「どこにも行かず二人だけでいよう。ただ、サラと同じ時を過ごしたいだけなんだ。」

私たちの思い出はいつもなんでもないただの日常だった。どこかに遊びに行った記憶もないし、ただ私の弾くピアノを君が聴いて二人でずっと他愛もない話をしていただけだったから。思い出したいだけ。忘れられていないあの頃の瞬間が君も好きなだけだった。いつかの思い出が入った宝箱をひっくり返して一つ一つ手に取り探すように君を見つめながら私は君に言う。

「あの頃と同じように。ずっと二人で。」

蝉の五月蝿さなんてもう気にしていなかった。君に近づいてそっとキスを落とすとこの世界には私たち二人だけのようで、さっきまで頭をよぎっていた君との今後の距離感もどうでも良くなっていた。ただ、今は君との距離を格段に近めたかった。離れた先に見える君が夕日に照らされてまた私たちはふたりの世界に戻る。ただただ、ずっとこの時間が止まってくれと私はまた願うのだった。

消えてくれないでと願った夕日は気づいたら月に変わっていたのに生ぬるい風は未だに私たちの不快指数を増やすだけだった。小学生の頃の頃に感じたこの街は思ったよりもずっと小さく何にもないつまらない街だった。君がいたから、きっと毎日面白いものが詰まっているのだと勘違いしていただけなのかもしれない。

「毎日この街は流石に飽きないかな。」

ぼそっと呟いた一言に君は私の方をゆっくりと向く。

「飽きたらまた二人で冒険しよう。昔の俺らみたいにただ二人であたらしい世界を探してしていくだけだ。」

そうだ。君は昔から私が否定したり不安になるようなことをなくしてくれる人だった。そうだと言わんばかりに君が楽しそうにポケットの中から何かを取り出す。

「まだ持ってたんだ。二人で描いた絵。」

頷いた君は優しそうにそして懐かしそうに絵を見つめる。何にも囚われていたかった頃、二人で楽しそうに笑いながら音楽室で二人で描いた絵だ。除け者だった私を唯一認めてくれた君はずっと私の味方でいてくれた。そんな君と描いた絵は今私たちの目の前に見えるこの時間の川だった。どこにでもありそうなただの川があの頃のわたしたちによってたった一つの大切な思い出に変わっていくことは確かだった。キラキラしていた水面はもう暗く深海のようになっている。さっきまで鬱陶しいと思っていたこの生ぬるい風も今ではできるだけ長くこの世界を彷徨っていて欲しいと願うばかりだった。私は一週間前、音楽をやめた。そして君を全力で愛することにした。

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