第2話
Ep.2
20歳。子供の頃に思い描いていた人生とはいい意味でも悪い意味でも全くの別人になっていた。先週、私は音楽を辞めた。
「来週家出てくから。」
そんな言葉にも完全無視なママ、失望させてごめんねの気持ちとやっと解放される嬉しい気持ち。あれ以来ママは私と口すら聞いてくれなかった。覚悟はしていたけれど少し寂しい。毎日のように先生と今まで戦ってきた戦友たち、知らない遠い親戚たちまでたくさんの人から連絡が来た。裏切り者。中にはそう言ってくる人もいたが私の人生なんだから好きにさせてほしいと言い聞かせて誰にも返信をしなかった。傷つかないふりで精一杯な私だったがこの連絡たちも一週間もすれば無くなっていくのだった。世間から何だか除外された気分。ダラダラと過ごす時間がこんなに窮屈だとは知らなかった。防音室にも一週間入らなかった。人生で初めてだ。インフルエンザになった時だって毎日のように防音室で朝を迎えていたのだから。来週回収業者がくるってママが電話してったっけ。私と一緒にこの家を去るんだね。今度こそは素敵なピアニストに好かれてね。たくさんぶつかってごめん。ピアノに触れたらきっと今なら少し楽しんで弾けてしまう気がしてまた、この仕事をしたくなってしまうような気がしたから、結局ベットに寝転んで意味のない時間を過ごす。蝉がうるさいくらいに鳴いているこの季節とは想像もつかないくらい家の空気は冷たかった。ぼーっと読んでもいない漫画を見つめる。のだめカンタービレは私の唯一許された漫画だった。久しぶりに引き出したはいいものの、読む気になれない。何かないかと押し入れの中を除いた時、ふと目に入ったのは一冊の卒業文集だった。小学生の頃、目をキラキラ輝かせながらピアニストになりたいと本気で思っていた頃だ。一曲弾くとみんなの注目を集めることができた時代。懐かしさの残る文集を開くとあの頃の生活が頭を巡らす。その中でも“金木翔太”君の名前を聞くだけで声も顔も風貌も全て思い出せるそんな君を私はずっと探している。肝心の卒業文集には君のことは何一つ書いてないけれど。
「会えるかな。」
ぼそっと呟いたその言葉は蝉の海に消えていく。もし君があの頃と変わっていなければこの季節のこの時間はいつもの寄り道だった軽食屋さんにいるだろう。10年近く君を探していなかったのに会えるのか、そんな不安を抱いてしまうとなんだか不安に煽られてしまいそうだった。君はあの頃と変わってない。そう言い聞かせるしか私には方法が残っていなかった。自分の行動に正当化しないと何だかダメな気がした。どうせ私にはもう何も残ってない。踵が潰れたスニーカーをまた、踵を潰しながら歩く。今まで聞いたこともなかったヒップホップを聴きながら私は家を飛び出した。
「確かこの辺だったんだけどな。」
電車から降りるとなんだか懐かしい空気を感じる。古びた改札によく雨宿りをしたスーパー。寄り道禁止でビクビクしながらこっそりスーパーに寄ってアイスを買っていた思い出すらもまだ記憶に刻まれている。久しぶりにきた小学校の周辺は何も変わっていなかった。小さい頃の記憶は意外と残っているものだ。地図のアプリをそっと閉じて自分の記憶のままに道を辿る。なくなってしまった店も多かったが、家族で住むにはちょうどいい街なので都会にはない古き良きの駄菓子屋さんやおじちゃんがやってるクリーイング屋も残っている。クリーニング屋の角を曲がった先に見える小さな軽食屋。小学校の頃は放課後に遊びにいって、中学に入るとそこはもう学生たちの溜まり場になっていた。この街だけ十年前に取り残されたように。自分の世界だけがな切なく進んでしまっていたように。廃れていく中身とあの頃とはまた違う自分が嫌に思えた。スーッと息を吸うとなんだか懐かしい香りがする。柔軟剤の柔らかく少し甘いその香り。まるであの頃の君を見つけたかのような。
「サラだ。」
面影の残る声が聞こえた。低くて、落ち着いていて、少しだけ楽しげな声。香りの正体もあいつだ。大好きでずっと忘れられなかった人。私の人生を180度変えた人。そして突然、私の前から姿を消した人。ずっと会いたかった人。
「今までどこにいたの?」
久しぶりの感情も忘れて君を責める。あの時の笑っていた君のまま、どこか少し儚げな表情で随分と大人になってしまっていた。肩まで伸びた髪は結べるほどの長さだろうか。黒にゴールドが入り混じったメッシュが昔の君のヤンチャを表現しているようで。あの頃からずっと追いつけない身長は180をゆうに超えていて階段の一つ上を登って同じだった目線は二つほど登ってももう届かなそうだ。すらっとした身長に少し筋肉のついた君の身体は逞しくなりどこか君が私よりも二、三倍も早く大人になってしまったようにも感じる。サングラスにビビットのオレンジ色のハーフパンツ、タンクトップからは日焼けを全く知らない腕が伸びていた。あの頃の君のファッションとなんら変わりないのに久しぶりに会うからか、やけに大人っぽく見える。まるで君の仮面を被った誰か知らない人かのように。
「サラのこと遠くからずっと見てた。あの頃俺に言ったことついに言ったんだね。」
その言葉で一気に小学生の頃君にピアノを辞めてやると言っていたことを思い出す。真夏の音楽室で私の音楽を聴きながら静かに足でテンポをとっていた君を見てその自由さに惹かれ、私は小学生ながらに憧れをもったことを思い出す。
へへっと笑う君は私をずっとこの街で待っていたかような言い方をした。サラのこと忘れてなんかないよ、と付け加えていう君はまるで私の次の言葉を予測して話しているようだった。何も沈黙もどうってことない。今の私たちは小学生の頃に戻ったようだった。お店に入ると少し湿気った空気となんとも言い表せない独特の香りが鼻をツンとさせる。
「ベビースターもんじゃ二つ。」
メニューも開かず発した君の言葉に違和感は全くない。変わったのは当時30円だったものが50円になっていて、二人で一つだったものが一人一つになったことだけだった。あの頃の私たちとなんら変わりはない。
「それで。何してたのずっと。」
こっちは聞きたいことが山ほどあるのに君はそんなことなさそうなのが少し悔しい。
「サラに比べたら何もしてないよ。俺も久しぶりに戻ってきたんだ。」
翔太は親の都合でフランスにいたようだ。世界大会だけでなくても私もピアニスト人生で何度も何ヶ月もフランスにいた。それを君は知っていたことにもそれなのに会いに来なかったのにも腹が立った。私はこんなにも君を一目でも見たかったのに。会いたかったのに。
「サラの演奏実はフランスで見たことあるんだ。サラが俺を忘れるはずないのになんか不安で連絡できなかった。」
連絡手段もなかったしね。そう付け加えた君はまるで別人だった。私だけ時が止まっていて、ずっと足踏みしているみたい。そんな気がして肩を落とす。
「でもなんで戻ってきたの?こんな出会い方するなんて奇跡だよ。」
興奮した私を落ち着かせるように、サラのことだから、そういう君はまるで私よりも私のことを知っているようだった。私が君をずっと探していたことは知らなそうなのも気に食わない。
「もうそろそろ外に出たくなる頃かなって、俺の勘がそう言ってた。」
会えなくても会いに行こうと思ってたしと付け加えた君はもんじゃを口にしながら簡単に言う。気に食わなくて頬を膨らます私だったが本当にこの人は私をずっと見てきてくれた。その事実がくすぐったくて嬉しかった。自分でも自然と口角が上がるのがわかる。一ヶ月間外に出ず、意味のないことばかりを繰り返していたあの時間のことはもうとっくのとうに忘れていた。ただ、8年前のように二人で過ごす何もない時間ほど欲していたものはなかったのだ。聞いてよ、といえば君は眉毛を上げて私のことを優しい顔で見るから。今も昔もその優しげな表情は何も変わっていないから、君がいない間に何があって、何が変わって何が変わっていないのか当時と同じ話を何回もする。君の前だけお喋りになるののずっと変わっていない。暑さが心地いとまで思っていた小学生の頃のとは違って、地球温暖化が進んだせいか暑さは時に苛立ちを覚えさせるが、未だに軽食屋には古びた扇風機が2台天井でカタカタと回っているだけだ。私の話が同じでも君は嫌な顔ひとつせずに私の言葉に耳を傾けながら、もんじゃを一口、また一口。もんじゃを食べ終わった頃、私は君の話を何も聞いていないことに気がつく。今までの一時間で得た君の情報はフランスにいたこと、たったそれだけだった。君も私の話を聞いて私の話をして、私も私の話をする。時計の針は君といる時だけ忙しく回るのだった。それが今でもこんなに悔しいなんて、私の人生で君が必要不可欠だったこと改めて知るには少し遅すぎた気もする。いつの間にか当たりはオレンジ色の空と柔らかい雲がたくさんある空に囲まれていた。陽が長くなったなんて何年振りに感じただろうか。そしてもう少し長ければいいと願ったのも何年振りだろうか。たった一枚の百円玉を置いて君の後ろ姿を眺めながら軽食屋を後にする。
「夕飯も一緒にって言いたいとこなんだけど、ごめん先約があって。また近々ここで。」
もんじゃ屋のレシート裏に書かれたメールアドレスを見つめる。君が消えたあの日、音楽室のピアノに貼られたあの付箋に書いてあったアドレスと同じものだった。
風が吹いたと同時に結わかれているところから出てきている髪をかきあげる君と、夕陽で映るシルエット、夕陽のせいなのか君の背が伸びたのか昔よりも一段と長くなった影。君にまた恋をするには十分すぎるほどの条件が揃っていた。度々思い出すには勿体無い人で私が唯一信頼していた人がまた、私の目の前に現れた。過去のことを思い出すだけで君に恋できそうなくらいになっていたから。蝉の大合唱なんてもう聞こえなくなっていた。視覚、聴覚、嗅覚、そして私の感覚までが君に惹かれ始めていたのだ。また、私の忙しい日常が始まろうとしている予感がする。一ヶ月前私は音楽を辞めた。
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