第30話「吉田有頂天」
吉田はさっき耳にした一華の言葉が現実の世界のことなのかにわかに信じられず、立ち尽くしてしまった。
憧れの鳩山一華が目の前に立ち、自分からの返事を待っている。
偶然この場に居合わせただけでもめったにない幸運といってよいのに、彼女の口から、デートの誘いとも受け取れる言葉が発せられたのだ。
吉田は鳩山一華と対面したまま硬直の姿勢を解けないでいた。それほどまでに衝撃を受けていた。すぐに自分がボールを返球しなければならないことに気づき、「は、はい。お茶、行きましょう」とどもりながら返答した。
二人は通りに出て歩き出した。吉田の心から兄の記憶を失ったことの落胆とショックは、もはやどこかへ吹き飛んでいた。
「居酒屋行きます? さすがに9時を回って喫茶店は開いていないと思いますし」
「そうですよね。とりあえず入れるところ……あの、30分くらいしか時間とれないのですけど」
吉田はちょっとだけがっかりした。
「え? ああ、ぜんぜん。もう遅いですもんね。じゃあ、軽く1杯程度で済ませましょう。中華居酒屋とかがいいかな……」
がっかりしたことを悟られないよう、わざと明るい声を出す。
「自分で誘っておきながら、わがまま言ってすみません」
「いえいえ、謝らないでください。僕も……その……前からお話したいなあと思っていて……」
「お話? 私にですか?」
「はい……」
吉田はとっさに目をそらした。わかりやすく顔が童女のように赤くなった。
「私に何のお話?」
覗き込むように吉田の目を見て尋ねる。
吉田は目をそらし、下を向いてしまった。
「……と、その……あ、あのそちらこそ、僕にどんなお話が……」
「それは……」
そのとき、前方の道路脇にハザードランプを灯して停まっていた車から、背広を着た二人組の男が出てきて、あわただしく吉田と一華のところへ近づいてきた。
「突然のことで申し訳ありません。私共こういう者でして」
桜田門の印章が入った手帳。ぱっと見て警察手帳だとわかる。
「今、緊急でお二人にお尋ねしたいことがあります。ご協力いただけますか」
坊主頭の若いほうが二人の顔を交互に見ながら申し出た。真剣な顔つきといい、早口の口調といい、急いでいるような様子がヒシヒシと伝わる。その隣に控えるでっぷりとした体格のよいヒゲ面の男も、眉間の深い皺と鋭い眼光で緊迫した状況にあることを訴えていた。
何やらただ事ではない雰囲気に、吉田も緊張した面持ちになり、「何かあったんですか」と問わずにはいられなかった。
「さきほど、あそこのファミレスから出てこられましたよね?」と、坊主頭は一華が勤めるファミレスを指さしながら、「実はあの店舗から爆破予告があったとの報告を受けたんです。今警察のほうでは緊急で警備体制を敷いています。すぐにファミレスに行って状況を確認したいのですが、お宅は店員さんですよね?」と、一華に質問した。
一華は「はい」と返事し、「爆破予告って……私がいたときは店長も何も言わず、店内で変わった様子とかなかったですけど……」と、おびえる様子をにじませながら答えた。
「行き違いになったんだと思います。つい今しがた急報を受けたものですから。とにかく、店員さんにどういった状況だったのかお話をうかがったうえで店舗に直行します。情報は少しでもあったほうがいいですから。お時間はとらせません。私どもも急いでいますので、ほんの二、三お聞きしたいことがあるだけです。なにとぞご協力をお願いします」
警官を名乗る二人は、深々と頭を下げ、協力を懇請した。
吉田と一華は、警官二人に案内され、前方に停車中の黒いワゴンのところまで来た。
「あ、彼氏さんは前に停まっている車でお待ちください。機密の関係上、同席はできません。お話を聞きたいのは店員さんだけなので」
吉田は、ヒゲ面の大柄な男のほうに付き添われ、前方の窓ガラスが黒フィルム張りになっている紺色セダンに連れていかれた。
「彼氏じゃないですけど」「そうでしたか。お父さん、は言い過ぎかな? 年離れてそうですもんね」という会話が後ろから流れてきて、吉田は軽く傷つきながら後部座席に乗り込んだ。
シートはグレーの革張りで、強い香水の匂いが車内に満ちていた。左斜め前の助手席に、パーマをかけた若い女性の横顔を認めた。「警察だよな」不気味な違和感が強い緊張を伴う恐怖に変わったときは、もう遅かった。左のこめかみをしたたかにぶん殴られ、右側頭部を窓ガラスに強く打ちつけた。意識がもうろうとしたところへ、今度はみぞおちに一発食らった。ビニール袋を被せられ、両手両足を縛られた。一つも抵抗できず、あっという間にくねくねするだけの芋虫にさせられた。
「さあて、どうやってかわいがろうかしら」
女の声がした。頭がズキズキ痛む。吐く息が顔にかかってむさ苦しい。胃から気持ち悪いものがこみ上げ、吐き気がおそった。あの娘はどうなったー。心臓が破れるほどの痛みが全身を駆け抜け、憤怒と恐怖と絶望で頭が壊れそうになっていた。
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