第29話「さよなら正常、こんにちは異常」

河野と別れて帰宅した吉田は、さっそく母に父から電話があったことを話した。


「いつ帰ってくるんだって聞いてきたよ。本当に離婚する気で家出ちゃったの?」


息子の問いかけに、母は「離婚するって置手紙書いて出てきたのよ。見てないのかしら」とうそぶく。


「オヤジはそうは本気で受け取ってないんじゃないの? 普通に“母さんそっちにいるんだろ? もうそろそろ帰ってくるように言ってくれ”なんて平然と言ってたからね」


「なんばよっか、人のことバカにして……誰が帰るか」


母は不機嫌にそう言い放った。その後しらばく、吉田の耳には聞き取れないくらいの小声でブツブツと文句を並べ立てた。


吉田はため息をつき、神妙な面持ちで母を諭す。


「ここにいるのはいいけどさ、いっぺん帰ったら? そして二人で話し合いの機会を持つのがいいよ。どうせろくに話し合わず一方的に置手紙だけ書いて出てきたんでしょ? ちゃんと話し合わないからオヤジにも伝わってないし、どうせそのうち帰ってくると思われてるんだよ。本気で離婚する意志があるのなら、そのへんちゃんと考えたほうがいいよ」


「今日はいつもより遅かったけど、残業したとね?」


「急に話変えるなよ……」


吉田は呆れるように首をひねった。


「あーあ、お母さんもバイトしようかな。暇やし。そのほうが生活楽しになるし、あんたも自由に使えるお小遣いが増えるし、そうするか。ね? 賛成するでしょ?」


明るい表情で提案する母に、息子は「いやだから、その前にオヤジのこと片付けなよ」とにべもない。


「お金あったほうがいいやろ? あんたの稼ぎだけじゃカツカツやろうし」


「いや、そう言い方されると普通に傷つくから」


「なんば今さら繊細ぶりよるか。ついこないだまで、家に電話かけて、余裕あったら一万円でいいけん振り込んでと泣き言いいよったくせに」


「もう金のことは心配なか。その時より給料上がったけん」


吉田は母と目を合わせず、そう口走った。今は、以前の物流倉庫のバイトと比較にならないほど割のいい仕事にありつけて、お金のことでまったく困っていないことを打ち明けたかったが、過去透視能力を使ってうまく稼いでいる話などできるはずもなかった。今日さばいた案件では100万円の報酬が入り、自分の懐にはその6割の60万円が入ったことも、自慢げに教えてやりたいのだが、話せばいろいろと面倒なことを聞いてくるに決まっているので黙っているのである。


「それはよかことたい……あんた、やっぱりバイト変えたんやろ」


息子の日記を盗み読みした母は、物流倉庫のバイトをとうに辞めていることを知っている。でも日記を無断でこっそり読んだことなど話せないから、こちらも我慢して言いたいことをこらえているのだ。


「変えてないってば」


母の真意など知る由もない息子は、以前として物流倉庫のバイトを続けている設定を崩さない。それで通るだろうとタカをくくっている。


母との会話が途切れ、吉田の目にふと、洋服ダンスの上に立てかけてある額縁が入り込んだ。


バイクにまたがった青年が、ピースサインをつくり、さわやかな笑顔を向けている。


「……」


写真に目を凝らす吉田の顔は、何か不審なものを見つめるそれになっている……。


吉田は立ち上がると、洋服ダンスに近寄り、額縁を手にとって顔に引き寄せた。そしてまじまじと写真に収まる人物の顔を見つめた。


眉間のしわは、みるみる深くなった。


(……誰だ……?)


誰とは! お前の兄ではないか! 吉田よ、お前は、無念にも五年前に病死した、弟思いの優しい兄を忘れたというのか……。


額縁を持つ吉田の手は震えていた。吉田には、この写真の人物に対する知識が一切なかった。それでいて、なぜか知らないことへの違和感だけは強烈に残った。あるはずのものがそこにはない。当たり前にあったはずのものが知らない間に消え失せている。その違和感の正体を知りたいが、そこに踏み込むことはなぜかためらわれた。扉を開けると恐ろしく後悔するような気がした。自分がとんでもない場所に迷い込んでしまったことへの恐怖が、手の震えとなって正直に表れていた。


わからなければ母に尋ねるという、疑問解決におけるごく当たり前の行動意志を働かせることもできず、吉田はただそこに固まるしかなかった。自分はこの人のことを知らない。そうでいてなぜか知らないことが当然とは思えず、むしろ知っていなければならない必然性だけは厳格に迫ってくる。写真の人物について母に尋ね、その回答を受けることは、自分が正常人間であるという自覚に銃殺刑を宣告するようで恐ろしかった。


「……どげんした? 兄ちゃんの写真ばそんなじっと見つめて」


母の言葉がガツンと脳髄に重くのめり込むのを感じた。めまいがし、一瞬ふらついたが、何とか倒れるのだけは防いだ。


「……ちょっと、出てくる」


吉田はそれだけ言うと、玄関扉を開けて外に出た。薄暗く寂しい夜道を一人歩く。


「忘れた……今度は、自分に兄がいたことを忘れたとさ……ははは……こうやって忘れていくのか……いいんだ、いいんだ、俺はもう、これで生きていくと決めたから……」


吉田は泣いてるように笑っていた。その人以外は知らないはずの他人の過去を覗き見る能力を使い続ければ、自分の過去の記憶―それも美しくかけがえのない記憶―が消えていくことは、とうに承知していた。それで淡い初恋の女子との素敵な思い出も、人命救助して表彰を受けた名誉ある行いの記憶も、すべて失ったのである。この与えられた能力を使い限り、その代償にこれまでの人生をささやかに形作ってきた一部が消されることは覚悟の上だった。それでも、肉親である兄の記憶が丸ごとなくなろうなどとは思いもしなかった。これは吉田にとって大きな衝撃だった。


吉田は、行き場のない心を慰める場所を求めてぶらぶらとさまよった。


気が付けば、好きな女性が勤める行きつけのファミレスに来ていた。


吉田は駐車場の前でたたずみ、階段を上りつめた先の玄関ドアをぼんやり眺める。


自動扉が開き、一人の女性が出てきた。


吉田は息をのんだ。私服姿の鳩山一華と向き合い、目が合った。


長いスカートの裾をひらめかせながら彼女が静かに階段を下りてきた。吉田の頭は完全にのぼせ上り、不遜にもこの状況をシンデレラ姫の童話と対比して空想した。


(かわいい)


体を重くしていた心のよどみが、聖なる光で清められていく。


「こんばんは」


一華のほうから挨拶してきた。この思いがけぬ展開に、吉田はまごつき、顔が赤く上気する恥じらいを必死で押し隠しつつ、何とか「こんばんは」と返すも、それすらおかしいくらいどもっていてもはや逃げ出したくなった。


一華は少し緊張した様子を見せた後、吹っ切れた表情を吉田に向けて、こう切り出した。


「……あの、お時間あれば、その、お茶でも……ちょっとお聞きしたいことがあるので……」


吉田の体内を熱波が吹き荒れた。

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