第9話「過去の秘密を知りたい/知りたくないの境界線」

吉田は先ほどから、玄関ドアの前に立って呼び鈴を鳴らす不気味な訪問者と息の詰まる心理戦を強いられている。


過去透視を使って秘密を握り、ユスリタカリで金銭を脅し取ってきた悪行が露見して捜査の手が及んだのではないかという恐ろしい想像が、吉田を縮こまらせているのだ。


「開けてください。いるのはわかってるんです。お話したいことがあるので、開けてもらいますか」


女性の声だ。


しかも、喉を潰したように変にしわがれている。


(女性? ということは警察じゃない?)


吉田の懸念は、やはり警察関係者かどうかの一点にかかっている。


(しかし最近は婦警もよく見るし……)


すぐに浮かんだ反証材料によって淡い期待は打ち砕かれる。


「開けるまでここを離れませんよ」


そこまで言われると、もう逃げ場はなかった。


吉田は覚悟を決め、立ち上がった。


もしドアの向こうに立つ人物が警察なら、ここで居留守を決め込むほうが後々不利になる。ここは堂々と対応したほうが得策だ。そう腹をくくって吉田はドアの前に立つ。


「どちらさまですか? 何か用ですかね?」


一応、通りいっぺんの質問を投げてみる。


「開ければわかります。お急ぎください」


吉田はムッとしながらも、ロックのつまみをひねり、ドアノブを回してドアを押し開いた。


「まーもーるーーーー」


ドアを開けた途端、吉田は両肩をつかまれ、体を揺さぶられながら、「さっさと開けんかこの! お母さんの声やろ! 忘れたんかこの親不孝もん!」という怒号を聞かねばならなかった。


それは吉田の母・正子であった。


「まあお母さんも驚かしてやろうと変な声だしてわからんように言ったけんね。どうねお母さんの迫真の演技は? 役者やっとったならわかるやろ?」


吉田は地元福岡にいるはずの母親の不意を突いた訪問で驚くより、警察ではなかったことの安堵感で心を楽にした。


「あら、お母さんが来たというのに、喜びもせんし、びっくりもせんとね」


母は息子の様子があまりに無表情、無反応に見えたので、不満らしく口をとがらせた。


「何しに来た?」


吉田は心の整理がついたところでようやく第一声を放った。


よく見ると、母はリュックを背負ってスーツケースを手に持ち、旅行者の出で立ちに見える。


「ここに住みに来た」


「は?」


「お母さん離婚する。お父さんにはもうついていけん。それで家ば飛び出してきた」


吉田はあまりのことに言葉が出ず、勝手に上がり込んで荷物を広げはじめた母の姿をただ目で追うことしかできない。


「何があったか知らんけど、ここ一人部屋やし、窮屈で二人も住めん」


「ほら、寝袋買ってきた。布団の心配はせんでよか」


母はスーツケースから寝袋を取り出すと、息子に自慢するように広げて見せた。


「ちょっと待って。マジでここに住む気か。つうか、本気で離婚するんか?」


「お腹すいたやろ? お母さん家出る前弁当つくってきたとよ、一緒に食べよ。あーお腹減った」


今度はシートを敷いて食べ物を詰めたタッパーをいくつも並べはじめた。白ご飯、唐揚げ、ミニハンバーグ、ひじき、煮卵、ほうれん草のおひたし、豚の角煮、有明海でしか採れない「クツゾコ」の煮付けなどがシートをすき間なく埋め尽くした。


吉田は母の独演をただ呆然と眺めるしかない。


「あんた、お金は大丈夫ね?」


母がもぐもぐしながらそう尋ねた。


「まあ、何とか」


「あんた豚の角煮食べるやろ? 好きやったもんね。これ全部あんたの好物つくって持ってきたとよ。あ、お金ね、お母さんはお母さんの分であるだけ持ってきたけん、生活費は心配せんでよかよ」


母にそう言われても吉田の表情は晴れない。


(一体、何があったんだ)


吉田は父と母との間で何があったのか、それを問いただしてみたかった。


「お兄ちゃんが残してくれた保険お金は、まだ残っとるね?」


吉田がそれについて尋ねる前に母の質問が飛んだ。


「あ、ああ、300万くらいかな」


「お母さんはもう、家のリフォームとかエアコンの取替とかタンスの買換とかでお金がかかったけん、200万しか残っとらん。お父さんほんとケチで自分から出さんけん」


「もしかしてそれが離婚の原因か?」


「違う……ほら、お兄ちゃんの写真も持ってきた」


母は額縁に収まる写真を取りだして息子に見せる。


目の細い優しそうな雰囲気の男性がバイクにまたがり、ピースをつくって微笑む姿が映っている。


6年前、37歳の若さで病没した兄・徹である。


吉田は、いつも自分のことを励まし、応援してくれた亡兄の生前の姿が目に浮かんだ。


切なさがこみ上げてくる。


さっきまで饒舌だった母がしんみり黙り込み、目を細くして写真をなでる姿を見て、さらに胸がつまった。


「まだ40にもならん年で、ガンは怖かね……あんたも気を付けんといけんよ」


吉田は釣り込まれるように「うん」と返事した。


吉田の頭の中は、あの日、病院のベッドで冷たくなった兄のかたわらで半狂乱に泣きじゃくる母の姿を思い描いていた。


そのとき、吉田ははっとした表情になった。


慌てて母から目をそむけると、立ち上がり、浴室を兼ねたトイレに姿を消した。


暗い一室に閉じこもる吉田の表情には、明らかに困惑の色がにじんでいる。


吉田の顔が青くなったのは、母の「秘密の過去」を見てしまうことの恐れからだった。


それが見えるかもしれないと思った瞬間、吉田は何かから逃げるように顔をそむけてしまったのである。


それは、他人の過去を覗き見るときには絶対に起こりえない感情だった。


(困った……)


母とこんなせまいアパートの一室で共同生活をはじめようものなら、間違って母の知られざる秘密にアクセスしてしまわないとも限らない。


「……守、あんたトイレに行った振りして、本当は泣きよっとやろ? ごまかしたってお母さんはちゃんとわかるけんね。よかよか、男だっちゃ哀しくて泣くことくらいあるばい。恥ずかしがることなか。ほら、そっから出てきてこっちで泣かんね……」


「いや普通にトイレだから」


吉田はそう弁明するも、困った顔つきで、そのまま閉じこもり、しばらく母の前に戻ることができずにいた。

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