ある日突然、宇宙から「他人の過去を透視する能力」を授かったけど、これ使うと自分の過去の記憶が消えちゃうんだよね
古古庭 零有
第1話「俺は過去透視能力を持つ男」
新築の立派な家から出てきたその女性は、元ソープ嬢だった。
少し離れた並木に隠れて女性の様子を見守る吉田は、思わずほくそ笑んだ。
今日は朝からツイテイル、とも思った。
吉田には、ありありと見えるのだ。
その女性の過去が、映像で。
淡いピンクの照明が豊艶な雰囲気を醸し出す薄暗い一室―。
服を脱ぐ男性のスーツを受け取り、ハンガーにかける慣れた手つき―。
せっかちに愛撫の手を伸ばす男性をやんわりと制するお風呂での光景―。
石けんの泡たっぷりに背中をゴシゴシと磨く献身ぶり―。
四歳くらいの女児の手をつないで歩く若い人妻の頭上には、そんな絵がぐるぐると回っている。
それはまるでプロジェクターから映像を投射されたスクリーンのように鮮明で臨場感にあふれ、目に焼き付ける力を持つ。
吉田はその模様を男性らしく顔を赤らめることも興奮する様子もなく、標本を観察する研究者のように冷静な表情で眺めている。
女性の姿は幼い娘とともに、駅に続く広い坂道の下へ消えていった。
吉田は周囲に人影がないことを確かめると、先ほど女性が出てきた新築戸建ての前まで足を運び、さりげなくポストに二つ折りしたメモ用紙を投函した。
彼女が賢明なら、賢明な判断をするはず。
吉田にはそんな確信があった。
16時くらいのファミレス店内は、客もまばらで静かな気配が漂う。
サングラスをかけた吉田が、俯きがちに暗い表情をして座る女性と向き合う席は、一番奥で受付からも遠い仕切りに囲まれた喫煙スペースにあった。
席に置かれた二つの灰皿は共に空いている。
「……そんなに高くないと思いますけどね。15万ですよ? たったそれっぽっちのお金で、あなたは今の暮らしを守れる。自分も、大切な人も、傷つけなくて済む」
吉田の口元は少しゆるんでいる。
対照的に女性の表情はこわばり、まばたきが激しく落ち着きがない。
時折目を上向きに天井を見つめて、胸元まで垂れる長い黒髪で片方の目を隠すように首を縮こめる。
吉田は、ことさら警戒心を与えないため意識して着用しているピンクのポロシャツの袖を反対の手指でつまみながら、「決めちゃいましょうよ」と軽い調子で言った。
うつむき加減の女性はしばらく無言を続けた後、吹っ切れたようにはっきりと吉田のほうへ顔を向け、
「本当に15万円渡せば、私たちの前から消えてくれるんですよね?」
と、訴えるように言った。
女性の真剣味を帯びた強い目つきが、ややずれてきたサングラスにぶつけられる。
吉田は「もちろん」と応じてから、「現金でお願いしますね」と付け加えた。
女性は上目遣いに吉田を睨みながら「どこで?」と小さな声で返す。
「ご自宅の近くに小さな公園ありますよね。そこに来週木曜の朝8時にお願いします。その時間、旦那さんはもう出勤してますよね」
先日女性を見つけたときの行動から、承諾を得られそうな曜日と時間帯を指定したのだった。
女性は吉田を強い眼光で見据え、
「……連絡先も教えない。待ち合わせの場所も時間も一方的に指定する……痕跡を残したくないんですね」
と、相手の心中を探るように言った。
吉田は返答にちょっと詰まったが、何とか「だから、私のことを知ってもあなたには何のメリットもないですから。あなたが何か言うだけで、無駄に時間が流れるだけです」と切り返した。
このときの吉田の心は、ちょっとだけ乱れていた。
吉田は女性の小さな反撃を、自分が小心者のような評価を下されたと受け止めたからだ。
犯罪者が痕跡を残さないのはごく当たり前のことで、ただ事実を指摘されただけなのに、それを小心者認定のように受け取るところに吉田の気弱な性格が表れていた。
このサングラスだってハッタリの小道具と思われてやしないかと、余計な被害妄想までこしらえてしまう。
そんな吉田の胸中など知るはずもない女性は、強い視線を向けたまましばらく黙っていたが、一呼吸置いて「わかりました」と答えた。
吉田は、ほっとした。
そのとき、エントランスのほうから出入りを知らせる演奏音が鳴った。
「お疲れ様です」と挨拶する女性の声を、吉田の耳は聞き逃さなかった。
吉田の視線は、清楚な雰囲気の若い女性が店員に頭を下げながら従業員専用の控え室扉を開けて入っていく姿を追っている。
吉田の席から見える柱時計は16時50分を指していた。
「どうしてわかったんですか?」
「え」
受付のほうに視線を向けていた吉田は、思い出したように前へ向き直る。
「同業の方ですか?」
女性は明らかに探るような目つきになっている。
吉田は笑みを浮かべて「違いますよ」と答えた。
こういうとき、吉田はいつも返答に窮する。
まさか「人のヤバい過去が映像で見えるんですよ」などとは言えない。
別に言ってもいいが信じてもらえるわけがないことはわかりきっている。
「もしかして、クロキ……クロキマサオって男から……」
女性はそこまで言って口をふさぎ、何でもなかったような顔をして俯いた。
「何ですか」
「いえ、何でもないです」
さっきまで鋭い眼光で睨んでいた女性が、目を逸らしはじめた。
吉田はさして気に留めず、「まああるルートを使ってね。別に誰かがあなたの秘密をバラしたとかじゃないですから、変に疑わなくていいですよ」となだめるように答えた。
「……詳しいことは言えませんが、まあたまたま知り得る立場にあったもので、本当にたまたまです。まあ詮索しても意味ないのでよしましょう。そのほうがお互いにとって何も悪いことはなく安全です」
そう言って吉田は伝票を持って立ち上がり、帰る姿勢を見せる。
ふとその視線が、外に向かった。
グラスウォール越しに見える、歩道を歩くスーツ姿のサラリーマン。
道路向かいの高級時計店から出てくる貴婦人。
オフィスビルの窓越しに映る、せわしなく動き回る社員の姿。
(あんたばかりに構っていられない。こっちはお客さんを探しに行かなきゃいけないからね)
この世に、知られたくない過去を持たない人間はいない。
吉田はそのことに思いを馳せるときだけ、自分が彼らの上に君臨する帝王の気分でいられるのであった。
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