第22話 王の裁可と夜の誓い

 御前会議の広間は、早朝の冷たさをそのまま石床に閉じこめていた。高窓から射す斜光が、長机の端から端まで刃のように渡り、列席者の肩口に堅い影を落とす。


 玉座の手前、席次の最上段には国王アルス。頭ひとつ分、他より大きい。広い肩、厚い胸板、歳より若く見える精悍な面立ち。声を出さずとも、そこにいるだけで空気を低く唸らせるような、獣の風格があった。


 左右には高級貴族が並ぶ。エルフェイン公爵――ミリアの父は銀糸混じりの髪を撫でつけ、沈思の色を宿す。アグレイア侯爵――レイナの父は背筋を弓のように張り、表情をわずかも崩さない。その列の一角に、エヴァレット伯クラウスが座り、その向かいにヴァリスが席を得た。


 レイナとミリア、フェリル、そしてエヴァレット夫人は別室で待機している。報せは既に飛んでいるため、ヴァリスらの到着と同時に会議は開かれた。


 ヴァリスは、起立して一礼し、事実のみを淡々と述べた。言葉は拾い、余は切る。列席者の呼吸が交錯し、低いざわめきが一度だけ起こって、すぐに沈んだ。


 報告を終えると同時に、クラウスが膝をついた。


「陛下……。我が家の由来にまつわる不始末、万死に値します。いかなる処断も甘んじて受けます」


 アグレイア侯爵も、すぐさま頭を垂れる。


「アグレイア家としての監督不行き届き、弁解の余地はございません。陛下に対し、家の名を以てお詫び申し上げます」


 アルスは頷きもせず、しばし沈黙した。深く、背の内側から息を吐く。音は低く、広間の空気がわずかに震えた。


「……ヴァリス」


 王の声音が、静かに名を呼ぶ。


「お前は、どう考えている」


 ヴァリスは立ったまま、視線を真正面に据えた。


「エヴァレット伯爵家の令嬢フェリルに継承が起こったのは、およそ十年前。今のところ、シルヴァ=ハルナ側に顕著な動きは見られません。すぐに事が起こるとは考えにくいものの――」


 アルスはそこで、もう一度だけ深く息を吐いた。今度のため息は先のそれより長く、石壁が呼応して低く鳴った。


「そうではない」


 刃のように言葉を切る。


「それも重要だ。だが、少なくとも何もしない、というわけにはいかん。私が聞いているのは、それではない」


 王は身じろぎもせず、まっすぐに息子を見る。


「――守るのか。差し出すのか。お前は、どっちだ」


 長机の端で誰かが小さく息を呑んだ。空気が一段締まる。クラウスは俯き、今にも崩れそうなほど顔色を失っている。


 ヴァリスは唇を結ぶ。


 頭ではわかっている。すでに国王アルスは、フェリルを守るつもりでいる。であればこそ、ここで王太子としての務めを果たすならば、列席の重臣たちの前で、フェリルを守ることの危険を指摘すべきだ。シルヴァ=ハルナとの戦争の懸念、民への被害、国の未来への影響――そのすべてを口に出し、父の「守る」という意志をあえて補う形で逆の視座を示すことこそが、王太子の役割であるはずだった。


 だが胸裏に別の光景が割り込む。王都でのフェリルとの二人きりでの話。転生者であることを誰にも言えず、孤独に耐えてきたフェリルが涙を流した姿。そして『同じ故郷を持つ者として、これからも親しくしてくれたら嬉しい』とヴァリスが告げたときの彼女の涙。あの瞬間、自分も救われていたのだ。


 王太子としての理と、男としての記憶とがせめぎ合う。言葉は違う形で準備されていたはずなのに――唇からこぼれ出たのは、全く逆のものだった。


「……フェリルに罪はありません。百年前の事案は、引いては我がアルヴェリアの責。彼女一人に負わせるのは、あまりにも卑怯です。何を犠牲にしてでも――守るべきです」


 広間の空気が一気に揺れ、すぐに凪いだ。アルスは、ほんの少しだけ口角を上げた。


「よい」


 王は立ち上がらないまま、裁可を告げる。


「議は決した」


 短い宣言に、誰もが姿勢を正す。


「エヴァレット伯の治めるエヴァレット領は接収、直轄地とする。エヴァレット伯爵家は王都へ転封。伯は直轄地の騎士団を整えよ。当面、妻子とは離れての務めになるが、心して臨め」


 クラウスは床に両手をついた。


「身命を賭して、拝命いたします」


 エルフェイン公、アグレイア侯は静かに頷く。重鎮たちの顔には、覚悟の色だけが残っていた。


「宗廟と学匠院には手記の閲覧を許し、検証を急がせる。以上だ。解散」


 王の一声で、列席者たちが一斉に立ち上がる。鎧の金具の音が連なり、足音が流れとなって広間を出ていった。


「ヴァリスは残れ」


 王の声が背を打つ。扉が閉まり、広間に二人分の呼吸だけが残った。



 * * *



 アルスは一転、厳しさを解いて、扉の方へ顎をしゃくる。


「もう入ってきていいぞ」


 隣室の扉が勢いよく開いた。レイナが先に歩み入り、完璧な所作で一礼する。続いてミリアが目尻を潤ませながら小さく手を振った。最後に、フェリルが影のように走り込み、ヴァリスの胸へ飛び込む。


「ヴァリス様……!」


 小さく震える身体を受け止めると、フェリルは頬を擦りつけるようにして、嗚咽を漏らした。


「こわかった……また、この世界でひとりになっちゃうかと、思って……」


「大丈夫だ」


 あの時、書庫の前では言わなかった、言えなかった言葉をかける。

 ヴァリスは、彼女の髪を撫でた。指先に柔らかな温もりがからまる。


 横ではミリアが、涙ぐみながらも笑っている。


「よかった……よかったよ、ヴァリス君」


 レイナは王の前で淑女の礼を終えると、静かに一歩下がって見守った。目元に張りつめた気配は、まだ解けない。


 アルスは、腕を組んで眺めながら口をひらく。


「うちの息子は賢すぎていかん。王としては頼もしいが、父として、男としてはな。女を守るときぐらい、虚勢でも張ってみせろ」


「……お人が悪い」


 ヴァリスは苦笑して返す。


 アルスはあっけらかんと笑った。


「“武王”なんて呼び名もな。威嚇だ、威嚇。噛みついてくるなら噛みつき返すぞ、って獣みたいな看板よ。実際に俺が戦をしたところなど、見たことはあるまい?」


 ヴァリスは頷く。抑止としての武。父はいつも、最後の最後でそれを使わずに済む道を探してきた。


「守ると言ったからには、守り切れ」


 王の声が低く、まっすぐ通る。


「戦をするにしろ、せぬにしろ、このままは捨て置けん。シルヴァ=ハルナとの交渉は、お前が責任を持て。国と、女を賭けて、立て」


 ヴァリスは深く頷いた。腕の中のフェリルが、小さく息を呑む。


 アルスは、そこでふと表情を緩める。


「しかし、レイナ嬢ちゃんがいるのになぁ。気が多いね、お前も。俺なんぞ、ずっとお前の母一筋だというのに。誰に似た」


 レイナが、普段は決して公では使わぬ呼び方で、胸を張って答える。


「これぞ、殿下……ヴァリスは、わたくしだけに留まるような器ではございませんわ。御師様」


 そのレイナの言葉にアルスは声を出して笑い、厚い手で空気を押し流した。


「まあ、レイナ嬢ちゃんが良いなら良いさ。……ミリアちゃんまで誑し込んでるのは、ちと罪深いがな」


 ミリアは舌をぺろっと出して、すぐに笑みに戻した。ヴァリスは二人のやり取りを眺め、胸の中で静かに誓いを固める。――腕の中の彼女も、そして彼女たちも、必ず守り抜く。戦など、起こさせない。


 * * *


 夜。王城の塔の一室、ヴァリスの執務室には蝋燭の光がゆれていた。机上には、交渉の素案がいくつも広げられている。礼式の改定案、供償の枠組み、共同維持としての『要石補助術』の叩き台。宗廟と学匠院の検証スケジュール、近衛の防護計画――。


 扉を控えめに叩く音がした。


 近侍なら合鍵で入ってくる時刻だ。ヴァリスはわずかに眉を寄せ、立ち上がってノブをひねる。


 そこに、フェリルが立っていた。頬に薄紅を浮かべ、指先はそわそわと裾をつまんでいる。瞳の奥に火照りが灯っていた。


「どうしたんだ、フェリル」


 問いかけに答える代わりに、彼女は一歩近づき、小さな声で囁いた。


「……レイナ姉様とミリア様が貴方のところへ行っておいでって」


「……あいつら」


 ヴァリスはレイナとミリアの意図をすぐに察した。彼女たちと同じようにフェリルも愛し、守れと言っているのだろう。


 気が多いね、と笑っていった父の言葉が頭に浮かぶ。確かにその通りだとは思うが、男として悪い気がしないのは当たり前だと思う。

 

 でも、それ以上にこの世界に一人きりだと思っていたと嘆いた彼女、フェリルを愛おしく思ってしまったのは確かだった。


 おそらく自分で思う以上にヴァリスのことを想って理解してくれているレイナとミリアだからこそ、フェリルの背中を押したのだろう。


「……でも、わたしもそれだけじゃない。王子に会いたかったの」


 不安と、どこか甘えるような響き。そのままヴァリスの胸元にそっと額を預け、静かに目を閉じた。


 ヴァリスは戸を閉め、蝋燭の灯に照らされた室内で彼女を抱きとめる。長い一日を終えたその身体は、小さな震えを隠しきれなかった。


「ありがとう……今日、怖かったの」


「わかってる。大丈夫。もう一人にはしない」


 彼女の背に手を添えると、その震えは次第に収まり、代わりにそっとしがみつくようなぬくもりが返ってきた。


 ぴたりと寄り添うフェリルの体温。指先が裾を握りしめたまま、ほどけないまま、ただそっと寄り添っている。


 ヴァリスはそのまま執務椅子に腰を下ろし、膝に彼女を抱くようにして座らせた。フェリルは抗うことなく、頭を預ける。


 蝋燭の灯が静かに揺れ、塔壁を撫でる夜風がカーテンを揺らす。


 語られた言葉は少ない。それでも、すべてが伝わっていた。


 王子として、ひとりの男として。

 この腕に宿った温もりを、決して離さないと誓った夜だった。

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