悪役令嬢モノの王子に転生したので知識チートで令嬢たちを幸せにします

鳴島悠希

第1話 転生王子は異世界下水道を夢見る

 扉が開いたとき、ヴァリスは思わず足を止めた。


 白金に輝く天蓋のもと、焚き香のかすかな煙がゆらりと漂う。その中央に、レイナが静かに立っていた。


 胸元まで流れる金の巻き髪。純白の衣を身に纏い、凛とした瞳でこちらを見つめてくる。


 そのまなざしの奥にある想いを、ヴァリスはずっと避けてきた。


「遅いですわね。……殿下」


 レイナは歩み寄ると、寝台の縁に膝を折り、そっと視線を落とす。


「今宵こそ、わたくしに応えてくださるのですわね?」


 その問いかけに、ヴァリスはうなずくしかなかった。


 レイナは微笑む。けれど、その笑みには張り詰めた感情が隠されていた。


「ふふ……十年、待ちましたわ」


 その声には、誇り高さと、かすかな哀しみがにじんでいる。


 彼女の手が、静かにヴァリスの手をとらえた。


「……どうか、お優しく」


 ヴァリスはその手を強く握り返す。


 言葉にはできぬまま、彼は彼女の願いに応える決意を込めて、彼女の瞳を見つめ返した。


 レイナはそっと目を伏せた。長い睫毛が影を落とし、緊張と覚悟がその肩に宿る。


 ──これはただの婚礼の夜ではない。


 彼女が十年もの時をかけて紡いできた想いの結実。


 ヴァリスは、そっと彼女の頬に触れた。


「ありがとう、レイナ」


 その一言に、彼女はそっと微笑みを返す。


 そしてふたりは、ゆっくりと寄り添いながら、静かな夜に包まれていった。


 ***


 目を開けると、天井だった。


 いや、正確には──“天井らしき何か”だった。

 漆喰のような素材で塗られた曲面、幾何学的な模様を縁取る金の装飾。間接光に照らされて淡く光るそれは、どう考えても自分の知っている公営住宅の天井ではなかった。


 思考は混濁している。頭がぼんやりする。体が重い。いや、違う──小さい。

 手足を動かそうとすると、ぷにぷにとした腕が、やたら近くにある。


 喉を鳴らそうとすれば、奇妙な泣き声が漏れた。


「ああ……う、そだろ……」


 口は動かない。思考はあるのに、声が出ない。


 見慣れない部屋。見下ろす年配の女性。紺のドレスに、やけに盛り気味なフリル。

 どこかメイドか看護師を連想させる恰好をしている彼女が、慈しむような笑顔で顔を近づけてくる。


「まぁ……王子様、お目覚めですか?」


 王子……?


 その言葉を聞いた瞬間、冷や水を浴びせられたような感覚が走った。


「おいおいおいおいおいおい。ちょっと待て、冷静になれ、俺」


 内心で自分に呼びかけながら、ヴァリス──いや、坂上竜介(35歳・独身・地方公務員)は、生後数か月の乳児の身体の中で静かにパニックに陥っていた。


 意識はある。記憶もある。

 目を閉じて確認する限り、ヴァリスは確かに昨夜、自室で風呂も入らず缶チューハイを片手にエロゲの情報まとめスレを読んでいた。テーマは「悪役令嬢モノのおすすめ」だったはずだ。


 その後、眠る前に軽い気持ちで読んだWEB小説。


 タイトルは──


『王冠と純潔の檻』


 そして今の状況。


 この異様に贅沢で西洋風な内装。礼儀作法の行き届いた使用人たち。口々に「ヴァリス様」と呼ばれる存在。


 そして鏡越しに見えた、銀灰色の髪に碧い瞳の美しい赤子──


 ──ああ、最悪だ。ヴァリス、やっちまった。


 坂上竜介は今、あの小説の登場人物である「第一王子ヴァリス=アルヴェリア」として、異世界転生してしまったらしい。


『王冠と純潔の檻』。


 読みやすい文体と悪役令嬢レイナの萌えるキャラクターで人気を博していた中編WEB小説で、ヒロイン視点の物語だった。


 主役はレイナ。そして彼女を支えるのが、転生者の伯爵令嬢フェリル。


 一方で、第一王子ヴァリス──今の竜介のことだ──は、作中では残念イケメンとして、政敵に騙され、悪役令嬢である婚約者に愛想を尽かされ、最終的には国外追放されるという見事な没落ルートをたどっていた。


 ──冗談じゃない。


 こっちは前世、女に縁のないまま三十五を迎えた人生だ。


 悪役令嬢モノに惹かれた理由の半分は「こんな美人に罵倒されたい」という願望で、もう半分は「それでも最後は許されたい」という情けない希望だった。


 だが、こうして転生したからには──俺は、絶対に前世の俺よりもマシな人生を送ってやる。


 できるはずだ。なぜなら──


「俺には、前世の“知識チート”があるからな……!」


 この世界の上下水道事情は──全くの原始レベル。

 原作でも描写は一切なかった。トイレの構造も、衛生概念も、疫病の知識もない。貴族は便所で香を焚き、庶民は溜め壺とやらに用を足している。


 ヴァリスの前世、地方公務員として下水道局に十年勤めていたこの竜介とって、これほど相性の良い異世界があるだろうか?


「ふふっ……やってやろうじゃないか」


 と、思わずニヤけてしまった瞬間──


「まあ、王子様……微笑まれて?」


 乳母が頬を染め、思わず手を合わせる。


 ──違う。違うって。これは単なる引きつり笑いだ。


 数年後。ヴァリスは幼少期教育の一環で、初めて個人授業を受けた。


 地理、歴史、倫理、魔法理論。


 身体は子供でも、頭脳は三十五歳の現代人であるヴァリスには、全てが物足りない。


 講師が板書するたび、内心ではツッコミの嵐だった。


「いやいや、『魔法で水を清める方法』って……それ、下水道設備に組み込めばインフラ革命じゃね?」


「“霊水の加護”? それ浄水場の応用効くじゃん。マナ汲み上げポンプ作ろうぜ」


 そのうち、周囲の大人たちは囁き始めた。


 ──第一王子様は、尋常ならざる聡明さをお持ちです。

 ──まるで神の祝福を受けたかのようなお子……。

 ──いずれ、王国の未来を担うお方になるでしょう。


 ふん。言われずともそのつもりだ。


 そして──


 ある日のこと。


 城の一角で、彼女は現れた。


 金髪の縦ロール。青い瞳。仕立ての良いドレスに身を包んだ、気品と傲慢さを纏った少女。


 レイナ=アグレイア侯爵令嬢。


 ──原作における“悪役令嬢”。


 初対面にもかかわらず、彼女はヴァリスを値踏みするような視線で見つめ、堂々と言った。


「あなたが……私の婚約者になる方なのね?」


 その声に、ヴァリスは思わず言葉を失った。


 原作通り、高飛車。自信家。だが──この歳にして、既に磨き上げられた貴族的立ち居振る舞い。


 レイナのその姿に、ヴァリスは心から思った。


 ──この娘を、ヴァリスは絶対に“敵”になどしない。


 むしろ、最も信頼できる“伴侶”として──迎え入れてみせる。


「レイナ=アグレイア……侯爵令嬢としては最高位クラス、かつ将来の王妃候補。だけど、原作では“悪役令嬢”として罵倒と粛清の末に失脚するキャラ……という設定で転生した伯爵令嬢フェリルに助けられ、逆に愚かな王子ヴァリスを追放するきっかけとなる」


 ヴァリスは幼き婚約者を前に、静かに観察を始めた。


 ──髪の艶、姿勢の取り方、言葉の選び方、そして瞳の奥に見える、彼女自身すら気づいていない孤独。


 レイナは、すでに幼年にして他人を突き放すことで自分を守っている。


 原作での彼女の悪役化には、明確な動機があった。

 王妃教育の重圧。純潔神話の強制。愛されない婚約者とのすれ違い。社交界での孤立と見下し。


 だが、今のヴァリスは──その未来を知っている。


「……ヴァリスだ。よろしく、レイナ」


 当時、ヴァリスは五歳。彼女は六歳。


 差し出した小さな手に、レイナは一瞬、眉をひそめ──


「礼儀は心得ているのね。まあ、悪くないわ」


 と、そっとその手を握った。


 その瞬間、ヴァリスは確信した。


 この少女を、必ず幸せにしてみせる。


 彼女の敵には、決して“ならない”。


 教育期間が進むにつれ、ヴァリスは着実に周囲の信頼を獲得していった。


 教師たちは「王子は魔法理論において卓越した才覚を示されました」と評価し、家臣たちは「幼少にして政治と経済を語るとは……」と舌を巻いた。


 もちろん、それは当然だ。ヴァリスは35年分の社会経験と、三桁を超える異世界系ラノベ読了歴を持つ転生者だ。

 知識という武器において、この世界では引けは取らない。


 だが、問題は“実践”だ。


 この世界には衛生の概念がない。

 王族ですら、排泄は専用の壺に、入浴は週に一度という文化。


 その状況で、ヴァリスは最初の一歩として“風呂”に目をつけた。


「魔法で湯が沸かせるなら、なぜ温水循環システムがない?」


 そう考えたヴァリスは、古代魔法アーカイブアーツの応用で“常温魔力水流”の制御を学び、簡易装置を作った。木製の配管に魔導石を仕込み、水を一定方向に押し流すという原始的な構造。


 それを、母──王妃の専用風呂にこっそり設置した。


「まぁ……なにかしら、この湯の心地よさ……?」


 ヴァリスの母にあたる王妃殿下が、湯に浸かりながら驚嘆する声を漏らしたという話は、翌日には城中に広まっていた。


 その湯はぬるまず、匂いもこもらない。排水は自動的に流れ、衛生的。

 女官たちは口々に言った。


「王子様の発案だそうです」「古代魔法アーカイブアーツの応用とのこと」


 国王も興味を示した。


「面白い。宮廷風呂だけでなく、兵舎にも設置してみてはどうか?」


 ──よし、これで一歩目は成功だ。


 ヴァリスはにやける口元を抑えながら、次なる構想を練っていた。


 それからほどなくして。


 レイナとヴァリスは、教育の一環として王都の図書塔を訪れることになった。


「ヴァリス。今日の講義、わたくしが出題しますわ」


 金髪を揺らし、レイナが宣言する。


「“アルヴェリアの地下には、神代の遺構がある”という噂。信じる?」


 恐らく覚えたばかりの話なのだろう、偉そうな仕草がまた可愛らしい。


 ……原作の記憶に、確かにあった。


 廃都市の遺跡。そこには未解析の魔導構造があり、物語終盤で敵勢力が拠点とする場所。


 だが今、この世界の住人として考えるならば──


「“ある”と仮定したほうが、有用だな。遺構というより、古代の上下水道網だった可能性もある。なぜなら……」


 そこから、ヴァリスは語った。


 排水経路。水の流れ。地熱。城の建築構造。地盤沈下の兆候。


 レイナは初めて見る表情で、黙ってヴァリスの話に耳を傾けていた。


「……ヴァリス」


「うん?」


「あなたって、……変わってるのね」


「……ああ。そうだな」


 彼女の瞳が、微かに揺れたように見えた。


 ──この世界を変える。君と共に。


 言葉にしなかった約束が、心の中で結ばれた気がした。


 その夜、寝台に横たわりながら、ヴァリスは思った。


 ヴァリスの知識は、無力じゃない。


 そして──ヴァリスのそばには、彼女がいる。

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