第2話 剣聖、ギルド登録と猫舌を弟子にする
「ですので、こちらの身分証は…二百年前に完全に失効しており、更新手続きもとうの昔に締め切られております。残念ながら、これでは身元の証明には…」
「なっ…!」
役人の非情な宣告に、アーサーの完璧な微笑が音を立てて砕け散った。
金貨千枚。優雅なカフェ。午後の日差しの中で、自ら淹れた紅茶を客人に振る舞う穏やかな日々。アーサーの壮大なリタイアメントプランは、開始三十分にして完全な白紙に戻った。
隣で話を聞いていた騎士団長ギデオンは、ガシガシと無骨に頭を掻いた。
「おいおい、マジかよ…。二百年前に失効だぁ?ガハハハッ!!!そりゃあ、どうしようもねえな!」
「どうしようもない、では済まされません!私の…私の夢が…!」
アーサーはがっくりと肩を落とすと、その場に崩れ落ち、役所の冷たい床にのの字を書き始めた。
「ああ…私のサンルーム付きのカフェが…。アンティークのティーセットが…。世界中の茶葉を集めたコレクションルームが…全て、泡のように…」
「おい、しっかりしろ英雄様!いじけてても金は湧いてこねえぞ!」
ギデオンが呆れてつつ声をかけるが、アーサーは聞く耳を持たない。その姿は、もはや伝説の剣聖ではなく、おもちゃを没収された子供そのものだった。
その時だった。役所の入り口から一人の少女騎士が息を切らして駆け込んできた。亜麻色の髪をポニーテールに揺らし、その瞳は尊敬と熱狂でキラキラと輝いている。
「はあ…はあ…!いらっしゃいました!アーサー様!」
ギデオンはその顔を見て、眉をひそめた。
「あん?おめえ、新米のエレナじゃねえか。こんなとこで何してやがる」
「はっ、騎士団長!ご報告が…いえ、それよりも!」
エレナはギデオンに鋭く敬礼すると、いじけているアーサーの前に進み出た。そして、床に伏していることなど全く意に介さず、騎士の最敬礼と共にその情熱を叩きつけた。
「アーサー様!先ほどの戦い、まさに神技でございました!その優雅にして無駄のない剣捌きに感服いたしました!どうか、この私を弟子にしてください!」
熱烈な弟子入り志願。しかし、アーサーは床にのの字を書きながら、怨念のこもった声で答える。
「弟子…。それより、金貨千枚を合法的に手に入れる方法をご存じありませんか…。できれば、あまり労力をかけずに…」
「えっ」
伝説の英雄にあるまじき発言に、エレナは目を白黒させる。ギデオンはこめかみを押さえ、天を仰いだ。
「てめえなあ…。まあいい、話は後だ。とにかく、アーサー殿、あんた今のままじゃ身元不明の不審者だ。金もねえ、家もねえ。オークジェネラルの肉は山ほどあるが、それを煮込む鍋すら持ってねえだろうが」
「うっ…」
ギデオンの容赦ない現実的な指摘に、アーサーは言葉を詰まらせる。
「だが、あんたには神様みてえな腕がある。そんな奴が行く場所は、今の時代、一つしかねえ」
ギデオンは、ニヤリと口の端を吊り上げた。
「『冒険者ギルド』だ。あそこなら、実力さえありゃあ、今日明日の寝床と当面の生活費ぐらい、すぐに稼げる。身分証も、ギルドのものが発行されるからな」
「冒険者…ギルド…」
アーサーは、先ほど街中で見た、喧騒と酒の匂いが渦巻く建物を思い出し、顔をしかめた。
「あのような品のない場所に、この私が行けと…?」
「品がねえだと? あの活気がいいんじゃねえか。まあ、好かんのなら無理強いはしねえが…」
ギデオンはわざとらしく付け加えた。
「…しかたねえ。当面は、俺の騎士団の兵舎にでも厄介になるか?もちろん、三食昼寝付きとはいかねえ。朝は日の出と共に起床、訓練して、街の巡回。食事は豆と黒パンのスープだ。肉は毎日出るが、味はしねえ。紅茶なんぞ、年に一度の建国祭で出りゃあ、いい方だな」
「…………」
アーサーは、想像を絶する過酷な生活(豆と黒パンのスープ、紅茶なし)に、さあっと血の気を失った。
「…ギデオン殿」
「おう」
「その、冒険者ギルドとやらに、案内していただけますでしょうか…」
現金なものである。
こうして、いじけた伝説の英雄と、叩き上げの騎士団長、そして夢見る見習い騎士という、奇妙な三人組は、新たな一歩を踏み出すべく、王都冒険者ギルドへと向かうのであった。
王都冒険者ギルドは、アーサーの想像を寸分違わず、そして想像以上に「品のない」場所だった。
扉を開けた瞬間、安いエールと汗、そして得体の知れない何かの煮込み料理の匂いが混ざった空気が、彼の鋭敏な嗅覚を襲った。屈強な戦士たちがテーブルを叩いて笑い、クエストボードの前では報酬を巡る怒号が飛び交っている。内装は実用一辺倒で、アーサーが愛した五百年前の建築様式に見られるような、優美な曲線や繊細な装飾はどこにもない。
「なんと…野蛮な…」
アーサーは思わず懐からハンカチを取り出し、口元を覆った。彼の隣で、見習い騎士エレナは目をきらきらと輝かせている。
「おお、ここが冒険者の…!初めて入りましたが、強そうな人ばかりですね!」
本物の冒険者たちの熱気に、彼女は少し気圧されながらも興奮を隠せないでいた。そんな二人とは対照的に、ギデオンは我が家のように堂々とした足取りで、騒がしいホールを突っ切っていく。途中で顔見知りの冒険者に片手を上げて応えながら、彼は一直線に受付カウンターへと向かった。
「よう。新人登録を頼む」
カウンターの向こうでは、眠そうな顔をした受付嬢が頬杖をつきながら、ギデオンをちらりと見た。
「あら、ギデオン騎士団長。お疲れ様です。また厄介事ですか?」
「違えねえ。こいつを登録させたいんだが、ちと訳ありでな。まあ、身元は俺が保証する」
ギデオンが親指で示す先で、アーサーは優雅な会釈をしてみせる。受付嬢は、場違いなほど気品のある男と、その後ろで緊張して直立不動になっているエレナを見て、面倒くさそうに一つ溜息をついた。
「はいはい。では、そこの方、こちらの水晶に魔力を注いでください。ランク査定をしますので」
言われるがまま、アーサーは差し出された黒水晶の前に立った。ギデオンが期待を込めて言う。
「おい、アーサー殿。変なことをするなよ?何かの間違いで、ギルドを吹っ飛ばすんじゃねえぞ」
「この御方の魔力は、きっとこの水晶では測りきれません!」
エレナも拳を握りしめて興奮している。
しかし、当のアーサーは「魔力を注ぐ」という行為そのものに首を傾げていた。彼自身の体内に魔力を溜め込むという発想はなく、ただ大気に満ちる無限の魔力を呼吸するように操る彼にとって、体内の魔力を「絞り出す」という作業は馴染みがなく、そして何より億劫だった。
彼は言われるがまま、無気力に水晶にそっと手を触れた。
しーん。
ギルドの喧騒が嘘のように、その一角だけが静まり返る。
水晶は、何の反応も示さない。
受付嬢が訝しげに水晶をコツコツと叩くと、まるでそれに反応したかのように、線香花火の最後の火花が消えるがごとく、ぽっ、と弱々しい光を灯して…すぐに消えた。
「えーっと…」
受付嬢は査定結果の紙と水晶を二度見、三度見した。
「…魔力量、一般人以下、ですね。もしかして、体調が優れないとか…?」
「はぁ!?」
一番大きな声を出したのはギデオンだった。
「てめえ、ふざけてんのか!? あのオークジェネラルを木っ端微塵にした野郎が、魔力なしだと!?」
「そ、そんなはずはありません! きっとこの水晶が偽物なんです!」
エレナも必死に抗議する。だが、アーサー本人は涼しい顔で言い放った。
「Fランクですか。結構です。それでお願いします」
「「えっ!?」」
ギデオンとエレナの驚愕の声をよそに、アーサーは満足げに頷いた。
「ランクが低い方が、面倒な依頼を押し付けられずに済みそうですからね。ええ、実に合理的だ」
こうして、受付嬢とギデオンが「本当にいいのか」「いや、こいつはとんでもねえんだ」と押し問答を繰り広げた末、アーサー・フォン・シトラスの真新しい冒険者カードには、不名誉なんだか名誉なんだか分からない、特例の「騎士団長保証付き・Fランク」という肩書が刻まれることとなった。
伝説の剣聖、冒険者としてのキャリアを、最底辺からスタートさせる。
その顔には、絶望も屈辱もなく、ただ「面倒がなさそうで何よりだ」という安堵の色だけが浮かんでいた。
無事に(?)Fランク冒険者としての登録を終えたアーサーは、ギルドの喧騒を完全に無視して、おもむろに魔法の収納袋から愛用のティーセットを取り出した。その手際の良さは、まるでこれからダンジョンにでも挑むかのように、真剣そのものだ。
「よし、アーサー殿! Fランクだろうが何だろうが、ギルドカードは手に入れたんだ。景気づけに一杯どうだ! ここのエールは馬の水みてえに薄いが、ないよりはマシだ!」
ギデオンが豪快に笑いながら肩を叩くが、アーサーは心底軽蔑したような目で彼を一瞥した。
「ギデオン殿。そのような、馬が飲むのか水なのかすら判然としない液体と、私の紅茶を一緒になさらないでいただきたい」
「んだとコラ」
「さて、色々とありましたが、心を落ち着ける時間も必要でしょう。エレナ君、あなたもいかがですかな? 私の弟子になりたいのであれば、まずは紅茶の素晴らしさを知ることからです」
アーサーが指を鳴らすと、ギルドの隅の比較的きれいなテーブルの上に、あっという間に純白のテーブルクロスが敷かれ、優雅なティールームが出現した。周囲の冒険者たちが「なんだありゃ!?」「あのテーブル、どこから出しやがった!?」と度肝を抜かれる中、アーサーは完璧な手つきで紅茶を淹れ始める。
「これは、私が何年もかけて熟成させた『
湯気の立つ美しい琥珀色の紅茶を差し出され、エレナは感激に打ち震えた。先ほどのランク査定での不甲斐ない(と彼女は思っている)結果など、どうでもよくなっていた。
(アーサー様直々に淹れていただいた紅茶…! 光栄の極みだわ! )
彼女は憧れの師を前に、固く決意を固め、優雅にカップを口元へ運んだ。そして、期待に胸を膨らませ、ごくりと一口。
その瞬間、エレナの時間が止まった。
灼熱の液体が、彼女の舌を蹂躙する。猫舌というレベルではない、超が付くほどの猫舌の彼女にとって、それは溶岩の奔流に等しかった。
(あつっ、あつ、あつい、熱い熱い熱い熱い!!!)
淑女としての体裁も、師への敬意も、全てが沸点を超えて吹き飛んだ。彼女の頬がリスのようにぷっくりと膨れ上がり、次の瞬間。
「ブーーーーーーーーーッッ!!」
蒸気機関の安全弁が抜けたかのような凄まじい音と共に、最高級の紅茶が霧となってギルドの床に噴射された。幸いにも、近くの席で飲んでいたドワーフの、見事に編み込まれた髭をびしょ濡れにするだけで済んだが、ギルド中の視線が一点に突き刺さる。
アーサーは、悲劇に打ちひしがれた顔で、空になったティーカップを見つめていた。エレナの舌の心配ではない。
「ああ…私の『霧の雫』が…。一口も味わわれることなく、蒸気となって…。エレナ君、君はとんでもないことをしてくれましたね…」
「も、もふひわけ、ありまへん…(も、申し訳、ありません…)」
真っ赤になった舌を出し、涙目で謝るエレナ。その時だった。Fランク用のクエストボードに、ギルドの職員がとん、と一枚の依頼書を張り出した。
『依頼:ウィスパーヒルズに群生する「陽光レモン」の採取。酸味にうるさい貴族への献上品。Fランク向け』
その文字を見た瞬間、アーサーはすべての絶望を忘れ、カッと目を見開いた。
「陽光レモン…! あの幻のレモンが、こんな近くに!?」
それは、五百年前でも滅多に手に入らなかった、至高の酸味と香りを誇る伝説のレモンだった。他のどんなレモンも、その前では霞んでしまうほどの逸品。
「エレナ君!」
「は、はいぃ!」
アーサーは、先ほどの紅茶事件など微塵も気にしていない様子で、エレナの肩をがっしりと掴んだ。
「我々の初任務が決定しました。最高の紅茶には、最高のレモンが不可欠。これは、私のカフェ開業の夢へ繋がる、最も重要な任務です!」
金貨百枚よりも、ギルドのランクよりも、弟子の猫舌よりも、ただひたすらに「最高のレモン」という一点に情熱を燃やすアーサー。
Fランクの新人冒険者、アーサー・フォン・シトラスは、意気揚々と依頼書をボードから剥ぎ取った。
その後ろを、舌を氷で冷やしながら、見習い騎士エレナが必死に追いかけていくのであった。
伝説の剣聖の、波乱に満ちた冒険(という名の茶葉探し)が、今、静かに幕を開けた。
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