聖剣とレモンティー ~伝説の剣聖、午後3時から始める優雅なダンジョン攻略~
雪森 ぞう
カフェ開業 準備編
第1話 剣聖はかく語りき、「お茶の時間です」と
木漏れ日が柔らかく瞼を撫でる感覚で、アーサー・フォン・シトラスは目を覚ました。
深く、永い眠りだった。寝起きの気怠さは不思議と感じられず、むしろ全身に力が満ち渡っているのを感じる。懐かしい土の匂い、風が木々を揺らす音、鳥のさえずり。確かに見慣れた森の風景だが、よくみると何かが違う。かつては苗木だったはずの大樹が天を突き、記憶にある小川は流れを変え、より深く大地を削っていた。
(……さて)
微かな違和感を感じつつも、彼がまず気にしたのは己の置かれた状況ではなかった。空の色、太陽の傾き、そして肌を撫でる風の温度。それらから導き出される、ただ一つの事実。
(そろそろ、午後の三時ですね)
神聖なるティータイムが近い。
アーサーは立ち上がると、一分の隙もない仕立てのフロックコートについた土埃を軽く払い、森を抜けた先に見える街へと足を向けた。
町の前までやってきたが、記憶にあった大きさよりもかなり大きいような気がする。門は開かれていたが、その雰囲気は歓迎とは程遠かった。人々が中から外へと、恐怖に顔を歪ませながら逃げ惑っている。まるで濁流のような人の波に逆らうように、アーサーは悠然と街の中へ入っていった。転びそうになった子供をさりげなく支え、微笑みかける余裕すら見せながら。
街の中心広場は、破壊と絶叫が渦巻く地獄絵図と化していた。
顔に古傷が走る大柄な騎士――騎士団長のギデオンが、血の混じった唾を吐き捨てて吼える。
「ちくしょう、崩されるぞ!隊列を組み直せ、死にたくなきゃな!」
「しかし団長!あの化け物には魔法も効きません!」
「うるせえ!効かねえなら効くまで撃ち続けろ!オークジェネラルなんぞに、このシトリンを好きにさせてたまるか!」
小山のごとき巨躯を持つオークジェネラルが、巨大な棍棒を振り回し、石畳を砕きながら暴れ回っている。
「あいつを倒したやつには、王家から金貨千枚の褒賞が出るってのによ…!このままじゃ俺たちどころかこの町丸ごと滅亡だぜ! なにか手はねえのかっ…!」
目の前の騎士が絞り出すような声で叫ぶのを、アーサーは聞き逃さなかった。
(ほう、金貨千枚…)
それだけあれば、この街で小さな店を構え、最高の茶葉とティーセットを世界中から取り寄せても、十分にお釣りがくるだろう。
(カフェ、ですね。ええ、それがいい。これからの人生は、剣を振るうのではなく、優雅に紅茶を淹れて過ごすのです…ククク)
アーサーの中で、新たな人生設計が定まった。彼は静かに戦場の中心へ歩みを進める。
「おい、てめえ!何者だ!? 死にたいのか、とっとと逃げやがれ!」
部下の一人が叫ぶのを、ギデオンは手で制した。
「私の名はアーサー・フォン・シトラス。訳あって、今はしがない求職中の身ですがね」
「アーサー・フォン・シトラス…?」
ギデオンは眉をひそめた。
「…どっかで聞いたような名前だな…」
オークジェネラルは、自分に臆すことなく近づいてくる小さな人間に激昂した。
「グオオオオオオオオッ!!」
怒りの咆哮と共に、振り下ろされる巨大な棍棒。
だが、アーサーは懐から取り出した銀のティースプーンで、その一撃を「カキンッ」という軽やかな音と共に受け止めていた。
「……は?」
「ふむ。やはり力が入りませんね。どうにも体が本調子ではないようだ」
アーサーはつまらなそうに呟くと、腰に提げた細身の剣に手をかけた。聖剣が抜き放たれ、その全身から凄まじいオーラが放たれる。
勝利は目前。伝説の一閃が、今まさに放たれんとした――その瞬間。
ゴーン…ゴーン…
街の大時計が、時を告げる鐘を鳴らした。午後三時。
すると、アーサーはピタリと動きを止め、天を仰いだ。
「おや」
そして、張り詰めていたオーラをふっと霧散させると、深々と、そして優雅に一礼した。
「皆様、大変申し訳ありません。時刻は午後三時。私の神聖なるティータイムの始まりです」
「………………は?」
アーサーは困惑する周囲をよそに、広場の噴水の隣に魔法で優雅な「ティールーム」を展開させる。どこからともなくテーブルと椅子を出現させ、彼は腰の小さな革袋――魔法の収納袋に手を入れた。中から取り出したのは、年代物の美しいティーセットと、少しも劣化していない、まるで今朝摘んだかのように瑞々しい茶葉の入った小箱。時間停止の魔法が付与されたその袋の中には、彼が五百年前に愛した希少な茶葉が、完璧な状態で保存されているのだ。
「今日の茶葉は、ミストラル渓谷で朝霧を浴びて育った『
銀のポットに湯を注ぐ澄んだ音、立ち上る湯気と共にふわりと広がる芳香。カップの中で比較的明るめな琥珀色の液体が揺れ、そこに薄切りのレモンが落とされると、柑橘の爽やかな香りが弾けた。戦場の硝煙と血の匂いを、その一角だけが優雅に塗り替えていく。
彼はカップをソーサーごと持ち上げ、一口、静かに紅茶を啜った。
「――ふぅ」
至福の吐息。その瞬間、アーサーの纏う空気が一変した。一杯のレモンティーが、彼の魂に火を灯したかのように、その瞳に絶対的な力が宿る。
「さて。お待たせしました」
カップを置き、再び聖剣を手に取ったアーサーに、オークジェネラルは本能の恐怖を感じて棍棒を滅茶苦茶に振り回す。だが、遅すぎた。
「私の優雅なティータイムを邪魔した罪、その身で味わいなさい」
アーサーの姿が掻き消え、次の瞬間にはオークジェネラルの背後に立っていた。静かに剣を鞘に納める音が響く。
「剣技『
その言葉を合図に、オークジェネラルの巨体は音もなく綺麗に真っ二つに分かれ、ゆっくりと左右に崩れ落ちた。唖然とする人々が見たのは、血なまぐささとは無縁の、あまりにも滑らかな断面だった。
アーサーは崩れ落ちたオークジェネラルの断面を一瞥すると、満足そうに一つ頷いた。
「おや、これは見事な霜降り肉ですね。丁寧に処理すれば、素晴らしい煮込み料理になりそうだ」
その圧倒的な力と、聞き覚えのある名前、そして今しがた放たれた食通じみた一言。騎士団長ギデオンの脳裏で、ありえねえはずの答えが形を結んだ。
「…冗談だろ…? あの名前…あの強さ…。まさか、おとぎ話の英雄様と、同じだっていうのか…?」
彼は呆然と呟くと、我に返ってアーサーのもとへ歩み寄った。
騎士たちが呆然と立ち尽くす中、アーサーは崩れ落ちたオークジェネラルの巨体を満足げに眺め、何事もなかったかのように二杯目の紅茶に口をつけていた。そこに、ギデオンが近づいてくる。
彼はまず、アーサーの足元に転がっているオークジェネラルの、あまりにも見事な断面を見て言葉を失い、次に、戦場の真っ只中で優雅にお茶を嗜む男を見て、深い溜息をついた。
「……おめえさん、一体何者なんだ?」
ギデオンの口調は、騎士団長というよりは叩き上げの古強者といった風情だった。
「街を救ってくれたこと、まずは礼を言う。俺はここの騎士団長、ギデオンだ。見ての通り、化け物一匹に手こずる、しがないまとめ役でな」
彼はそう言って、無骨な手でヘルメットを脱いだ。その瞳には、アーサーの常識外れの力に対する畏怖と、純粋な好奇心が浮かんでいる。
「私はアーサー・フォン・シトラスと申します。アーサーでもなんでも、好きに呼んでいただければ結構です」
アーサーは優雅にカップを置き、立ち上がって一礼する。そのあまりにも対照的な二人の姿に、周囲の騎士たちも固唾を飲んで見守っていた。
「アーサー…フォン・シトラスだと…?」
ギデオンは、その名を己の記憶の中で必死に探った。
「ああ、そうだ…。そいつは、五百年前に魔王を討ったっていう、おとぎ話の英雄様と同じ名前じゃねえか」
「おとぎ話、ですか。私にとっては、つい昨日のことのようなのですが。それとも、私の知らない寓話かなにかでしょうか」
「…はっ、冗談がきつい。まあいい。何はともあれ、おめえさんはこの街の救世主だ。約束通り、王家からの褒賞金、金貨百枚を受け取る権利がある。役所まで案内するぜ、ついてきな」
街の役所。ギデオンが事情を説明すると、受付の者は驚きながらもすぐさま手続きの準備を始めた。
「騎士団長殿から話は伺っております!オークジェネラルの討伐、見事でした!約束通り、金貨百枚を授与いたします。つきましては、身分を証明するものをご提示いただけますか?」
「ええ、もちろん」
アーサーは自信満々に、懐から年代物のカードを取り出した。精巧なミスリルで縁取られ、中央には勇ましいドラゴンの紋章が刻まれている。
『王国英雄ギルド公認:Sランク英雄 アーサー・フォン・シトラス』
それを受け取った受付の役人は、一瞬目を見張った後、隣のギデオンと顔を見合わせ、困惑したように眉を寄せた。
「お客様…これは…『王国英雄ギルド』の身分証、ですね。大変失礼ですが、どちらでこれを…?」
「私のものですが、何か?」
アーサーの当然といった態度に、役人はますます困った顔になる。彼は分厚い台帳を何冊か引っ張り出すと、必死にページをめくり始めた。
「うーん…ああ、ありました! やはり…。お客様、大変申し上げにくいのですが…」
役人は、アーサーの持つカードとおそるおそる見比べながら言った。
「この『王国英雄ギルド』ですが、二百年ほど前に大規模な組織改編がありまして…。現在は名前を『王都冒険者ギルド』と改め、紋章も様式も全く新しいものになっております」
「……はい?」
アーサーの完璧な微笑が、ぴしりと固まった。
「ですので、こちらの身分証は…二百年前に完全に失効しており、更新手続きもとうの昔に締め切られております。残念ながら、これでは身元の証明には…」
「なっ…!」
金貨千枚と、優雅なカフェ経営の夢が、ガラガラと音を立てて崩れていく。
伝説の剣聖アーサー・フォン・シトラス、目を覚ました初日にして、無一文の不審者となったのであった。
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