第2話 海星という少年
引きこもりの暁那のアパートを突然訪れた海星。
彼はわずかに体を震わせ、暁那を強く抱きしめる。
「……今まで顔見せなくて、ゴメン」
顔をうずめたまま呟く声に、暁那は動揺したまま返事も出来ずに固まっていた。
何年ぶりかの人の体温、落ち着かないような、不思議と安らぐような温かさ。
暁那はしばらく困惑していたが、思い切って言葉を発する。
「あ、あの……とりあえず、は、離れない?」
「……うん」
海星は言われるがまま名残惜しそうに体を離すと、今気付いたような顔で部屋の中をまじまじと観察していく。
ごみ袋が散乱し、散らかり放題の部屋。そして暁那に視線を移すと、肩まで伸びたボサボサヘアーに、薄汚れたダルダルのスウェット姿。
久しぶりの再会に感激していた海星だが、それを目の当たりにしてしばらく、キョトンとした顔でパチパチと瞬きを繰り返した。
「……か、海星?」
暁那が声をかけると、海星はようやく気がついたように、キリッとした顔で腕まくりをする。
「やるよ!」
「え、やるって、何?」
「掃除!」
大きな声の海星に暁那は体をビクつかせ、部屋のゴミを広い集める彼を止めることも出来ず、ただ呆然と眺めていた。
(……海星、背伸びたな……もう、何年ぶりだろう……そういえば、どうして会わなくなったんだっけ)
黙々と部屋を片付ける海星の後ろ姿を見て、暁那は彼との事を思い返す。
――――10年前
「ほら海星、ご挨拶行くよー」
「……いや、行きたくない」
傍目にもかなり築年数が経っているような一軒屋。それが理由かはわからないが、この辺りでは破格の値段の賃貸物件だ。
小学二年生の海星と母親は、数日前からここに引っ越してきた。
まだ段ボールがそのまま残ったような部屋で、母は海星のお尻を叩くように急かす。
「ダメよ! ご近所さんにはちゃんと挨拶しなきゃ!」
「恥ずかしい」
「何言ってるのよ、どうせ明日学校で自己紹介しなきゃいけないんだよ? いい練習じゃない」
母の言葉に嫌々ながらも立ち上がり、海星はようやく靴を履きだした。
海星の両親は去年の年末に離婚し、この春から母と二人きりの生活が始まったのだ。
元々大人しい性格の海星は、急な環境の変化に戸惑い、ここ最近はさらに自分の殻にこもることが多くなっていた。
◇
「えっと……
「う、うん」
母も緊張していたようで、インターホンを押す前にスーッと深呼吸をする。
海星も緊張した面持ちで、自分の家よりも遥かに立派で綺麗な望月宅を見上げていた。
インターホンを押してしばらく待っていると、「はい」と穏やかそうな女性からの返事がする。
「あ、あの! 先日引っ越してきた
「あらそうですか、ご丁寧にありがとうございます。少しお待ちくださいねー」
「は、はい!」
女性が出てくる間、母はホッと息を吐き、嬉しそうな笑顔で海星を見つめる。
「優しそうな人で良かったね!」
海星はそんな母をよそに、落ち着かない様子でゆらゆらと体を揺らしていた。
ほどなくして、玄関から母親と思われる女性が出てくる。海星の母よりも少し年配のその女性は、落ち着いた雰囲気の綺麗な人だった。
「お待たせしてすみません」
「い、いえ全然!」
女性は海星の姿を見ると、パッと表情を変えて明るく微笑む。
「あら! 娘さん? 可愛らしいですねぇ、おいくつかしら」
女性の反応に、海星はサッと母の後ろに隠れてしまった。
「あっはは……これでも小学二年生になる息子なんですよー。紛らわしいですよね?」
気まずそうに笑う母に、女性は「え!?」と口元を覆って驚く。
「ごめんなさい! あんまり可愛らしかったので!」
「あー、気にしないでください! 慣れてますんで、ねぇ?」
平謝りする女性の姿に、母はおどけた様子で海星に声をかける。
海星はそんな母のお尻をバンと力強く叩いた。
「アイタ! もう、何するのよー」
女性は二人のやり取りにクスクスと笑うと、何か思い出したように声をあげた。
「そうだ! ちょっと待ってくださいね!」
そう言うと女性は再び玄関を開け、中に向かって声をかける。
「暁那ー! ちょっと降りてきてー」
少し待っていると、海星よりも大きな少年が家から出てきた。突然呼ばれた少年は驚いていたが、母と海星の姿を見つけて軽く会釈をする。
「こちら、引っ越しのご挨拶に来てくださった相沢さんよ」
女性に紹介され、母はまた深くお辞儀をする。
「初めまして、望月暁那です」
控えめな笑顔で挨拶をする暁那に、母は感心したように挨拶を返した。
「暁那くん、凄くしっかりしてるのね! 歳は、海星よりだいぶ上かしら?」
「春から中学生になります」
「おめでとう! お母さんに似て美人さんだから、きっと人気者になるねぇコレは」
無意識に言っているのだろうが、褒められた暁那の母親も照れたように笑っていた。
一方暁那は、母の背に隠れる海星の姿が気になったようで、チラチラと見え隠れする顔をじっと見つめる。
「そうだ暁那、この子は相沢さんの息子さんで、海星くんって言うの。これから仲良くしてあげてね」
暁那は紹介された海星に軽く会釈をすると、ゆっくりと近づきその場にしゃがみ込んだ。
「初めまして。僕、暁那って言うんだ。よろしくね」
目線を合わせて優しく微笑む暁那に、海星はようやく緊張がほどけたようで、ようやく母の背中から出てきた。
「……アキ、くん?」
緊張からか、ちゃんと名前を呼べない海星を、暁那は微笑ましく見つめて笑う。
「そ、アキでいいよ。じゃあ僕は、カイって呼んでいい?」
「……うん! カイでいい!」
「はは! これからいっぱい遊ぼうね、カイ」
暁那の優しい笑顔を見て、海星はすぐに彼の事を好きになった。
家に帰ってもずっと母にくっつき、次はいつ暁那に会えるのかとそればかり。
近所に友達が出来て初めは喜んでいた母親も、あまりのしつこさにほとほと頭を抱えていた。
◇
「アキー!」
ある日、学童保育に迎えに来た暁那を、海星は大喜びで出迎える。
海星は母の仕事が遅いので、学校終わりは学童保育を利用していた。そして、暁那は学校帰りに海星を迎えに行き、その後暁那の家でゲームをしたりお菓子を食べたりと、二人で遊んで過ごすのが日課だった。
この日も一人漫画を読んでいた海星は、暁那の姿を見つけると、漫画をほっぽりだして嬉しそうに駆け寄ってくる。
「カイ、ちゃんと漫画片付けないとダメでしょ?」
「あ、えぇー」
海星は困ったような表情で、暁那と本棚を交互に見る。
「大丈夫、ここで待ってるから。ほら、片付けておいで」
「う、うん! 待っててね、絶対だよ!?」
慌てて走っていく海星を、暁那は愛おしそうに見つめていた。
兄弟がいない二人にとって、お互いが兄や弟のような存在だったのかもしれない。
◇
暁那と関わるようになり、大人しかった海星は段々と活発な性格へと変わる。
小学校高学年になる頃には、同級生の友達付き合いも多くなっていった。
それにともない、暁那と遊ぶ頻度も減っていく。しかし海星にとって、暁那が特別な存在であることに変わりはなかった。
「アキー、ゲームしよー!」
来年には中学生になる海星は、変わらず暁那の部屋に突然遊びに訪れていた。
「カイ、部屋に入る前はノックしてって言ってるじゃん」
「いいじゃん別にー」
カイは暁那のベッドに飛び乗り、話も聞かずに携帯ゲーム機を触る。
「良くない。僕だって、プライベートがあるんだから」
「何だよ、プライベートって」
海星はムスっとした顔で、机の前に座る暁那の方を見る。
「……カイに、言えないような事だよ」
暁那が呟いた瞬間、机の上のスマホが震えた。
「あ、ちょっとゴメン!」
電話だったようで、暁那は慌てて部屋の外に出てしまった。
海星はその様子が気になり、ドアにくっつき聞き耳を立てる。
(なんだよ、せっかく遊びに来てんのに、他のやつと喋って……)
しかめっ面をしていた海星だが、聞こえてきた会話にその表情は険しくなった。
『……うん、大丈夫。宰斗こそ、今日はバスケ部の助っ人お疲れさま……うん、来週の土曜日ね……ふふ、凄く楽しみ。そうだ、ごめん! 今ちょっと友達来てるから』
(誰だよ! 嬉しそうに笑って……何かムカつく)
暁那にこんな感情を抱くことなど初めてだったが、海星は無性にイライラしていた。
そう思いながらも話を聞くことをやめられなかった海星は、その後、衝撃的な言葉を耳にする。
『じゃあ、また学校で……え? うん、僕も、好きだよ……って恥ずかしいってば! も、もう切るね』
海星はそれを聞いた瞬間、慌ててドアから離れ、またベッドに飛び移りうつ伏せになった。
艶っぽく、恥じらいを含んだ暁那の声。初めて聞く彼の声に、海星は自分でも押さえられないほどに高揚し、それと同時にポッカリと胸に穴が空いたような喪失感を感じる。
どうしてそれが自分に向けられないのか……海星はそんな想いでいっぱいになった。
「……あれ、カイ? 寝ちゃったの?」
部屋に戻った暁那が声をかけると、海星はわざとらしく「ぐーぐー」と寝息をたてる。
暁那は困ったように微笑むと、ベッドに腰をかけて海星の髪をさらり撫でた。
「どうしたの? 拗ねちゃって」
「……拗ねてない」
海星はムスっとした表情のまま、顔だけを暁那の方へ向ける。
「誰と、電話してたの?」
海星の問いに、暁那は驚いて目を見開いた。
「えーっと……と、友達だよ?」
「嘘だ……好きって、言ってた」
海星は目をそらしてボソッと呟く。
「はぁー、聞いてたの?」
暁那は大きなため息をつくと、困ったようにボリボリと頭を掻く。
そしてしばらく考え込むと、頬を赤らめて海星の耳に顔を寄せ、小さな声で囁いた。
「カイにだけ言うけど……か、彼氏なんだ。母さんたちには内緒だよ」
暁那から打ち明けられた海星は、息苦しいほどに心が締め付けられた。
暁那に恋人が出来て、しかも相手は男。それはもちろん衝撃だったが、もっと驚いたのは、自分が深く傷ついている事だった。
「……お、俺、もう帰る! しゅ、宿題あるから!」
「えっ……カイ!?」
やっとの思いで口にすると、海星は部屋を飛び出して帰っていった。
それから、海星は暁那に会わなくなった。
出会った頃から大好きな暁那。友達のようで兄のような特別な存在。
けれど、自分も暁那をそういった対象に見ていたこと……海星はそれがどうしても受け入れられなかった。
◇
――――現在 暁那のアパート
「ふぅー……だいたい片付いた、かな」
海星は額の汗を拭い、散乱したものが綺麗に片付いた部屋を満足気に見渡す。
一方暁那は、部屋の隅に体育座りをし、どんよりとした空気を醸し出していた。
「……あのさぁ、なんでそんなとこにいるの?」
「だ、だって……海星の邪魔になると思って」
消え入りそうな声で話す暁那に、海星は困った表情でため息をつく。
「はぁ、邪魔って……自分の部屋じゃんか」
そばに近寄ると、暁那は体を強ばらせ、さらにこじんまりとしてしまう。
そんな彼の様子を悲しそうに見つめ、海星はしゃがみ込んで暁那と目線を合わせた。
「俺……もう絶対、アキから離れないからね」
海星の真剣な声に、暁那はようやく顔を上げ、彼の目を真っ直ぐに見つめる。
変わらない白い肌と、猫のような大きな瞳。けれども、昔のように女の子には見えず、真剣な瞳にはしっかりとした男らしさがあった。
「ふふ、やっとこっち見てくれた」
一転して柔らかく笑う海星の表情に、暁那は頬を赤らめ顔を背ける。
「……俺、これから毎日来るから。ちゃんと鍵開けてよね……それじゃ、また明日!」
そう言って玄関で靴を履く海星の背を見つめ、暁那は無意識に立ち上がり声をかけた。
「か、海星は……どうして、ここに?」
海星はしばらく背を向けたまま黙り込み、玄関のドアを開けて暁那に振り返る。
「アキの……力になりたいから」
優しく、そして少し悲しそうに微笑んだ彼の姿が、暁那にはまるで天使のように見えた。
バタンと閉じられるドアを見届け、暁那はしばらく見つめて立ち尽くしていた。
◇
「……海星、か」
閉めた玄関のドアを背にもたれかかり、海星は俯いたまま寂しげに笑った。
思い出の中にいる、暁那の姿を思い浮かべて。
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