第3話 閉じた心


 髪を梳くような風が心地いい。秋風に体を預けるように、海星は人気の無い夜道をゆっくりと自転車で走る。

 暁那の事情を知ったのは数日前。それは何気ない母との会話の流れだった。

 暁那に彼氏が出来てから彼を避けるようになっていた海星だが、心の片隅にいる暁那の存在をどうしても忘れることが出来ずにいた。

 しかしその思いは、彼の名を耳にしてすぐに大きく膨れ上がることになる。


 ――――数日前


「ただいま」

 高校に入ってからアルバイトを始めた海星は、この日も夜遅くに帰宅していた。


「おかえり、今日も遅かったねー。先ご飯食べる?」

 海星がリビングに行くと、母はテレビドラマ見ながら珈琲を啜っている。

「うん、晩ごはん何?」

「カレーライス!」

 誇らしげに言う母に、海星は呆れてため息をついた。


「3日前からずっとじゃん。せめて何かアレンジしてよ」

「えー? だって海星、カレーが一番好きでしょ? それに、アレンジしたところでカレーはカレーよ!」

「いくら好きだからって、そんな毎日出されちゃ飽きるって」

 

 文句を言う海星をお構いなしに、母は冷凍していたカレーをレンジで温め始める。

 どうやら今日もカレーを食べるしかないようだ。

 海星の母は、父と離婚してから介護の仕事をしている。元々料理は得意なほうではなかったが、正社員で働き始めてから益々料理に手が回らなくなっていた。


 (……何で一回好きって言ったら、ずっとそればっかりなんだろ。ありがた迷惑っていうか、何と言うか)


 海星は頬杖をついてレンジが止まるのを待つ。

 すると母は、思い出したようにある話題を切り出した。


「そうだ! 今日さ、買い物帰りにたまたま望月さんに会ったんだけど……」

 望月……忘れられない苗字が唐突に聞こえ、海星の体は一瞬ピクリと跳ねる。

「暁那くん、今一人暮らししてるんだって」

 母はなぜか暗い顔でそう言った。

「そ、そう。でもアキってもう22でしょ? 一人暮らしくらいするんじゃ」

 母の言動を不思議に思ったが、海星は自分の感情がバレないように、あえて何でもないように返事をする。 


「それがね……暁那くん、もうずっと引きこもってるらしくて……それでお父さんと揉めて、ほぼ無理矢理一人暮らしする事になったみたいなの」 

「……暁那が、引きこもり?」

 母からの話を信じられなかった海星は、目を丸くして聞き返した。


 暁那は出会った頃から穏やかで優しく、言うなれば誰からも好かれるような優等生タイプ。

 海星の思い出の中の暁那は、少なくとも引きこもりになるような性格ではないように思えた。

 それでも、海星には一つだけ切っ掛けになりそうな出来事に心当たりがあった。

 

 (確かあの時の電話……宰斗って言ってた)

 

 それは5年前、暁那に出来た恋人。彼氏が出来たと恥ずかしそうに話していた暁那の様子が、ふと海星の頭に思い浮かんだ。 

 幼いながらにショックを受けた電話の内容は、今でも海星の脳内にこびりついている。


「事情は、詳しく聞けなかったんだけどね……暁那くんのお母さん、だいぶ憔悴してるように見えたから」

「そっか……」

 俯いて、それ以上言葉が出ない海星の沈黙を、電子レンジの音が破る。


「……あっつ!」

 熱せられ容器を取りだし、母はお皿にカレーを盛る。その様子をじっと見つめ、海星は思いきって言葉を絞り出した。


「ね、ねぇ……アキの住んでるとこってどこ?」

「うーん、そこまでは……お母さんの様子見たら、あまり深く聞けなくてね」

 母の返答に海星は肩を落とす。そしてその様子を、母は不思議そうに見つめていた。


「海星、小学校までは暁那くんと仲良かったのにね……しばらく会ってないみたいだけど、何かあったの?」

「別に……アキも高校生になって、ガキの俺と遊ぶ時間も無くなっただけだよ」

 海星はそう言うと、誤魔化すようにカレーを頬張った。


「ふぅん……暁那くんなら、そんな事で距離を置くように思えないけど」

 母の言葉に、勢い良くカレーを掬っていた海星の手はピタリと止まる。


「喧嘩してるなら、早めに仲直りしなよ? 一度開いた溝は、時間が経つとどんどん広がっちゃうんだから……」

 いつになく寂しそうな母の声が聞こえ、海星は上目遣いにその顔を見上げた。

 

「……それって、父さんのこと?」

 何気なく聞くと、母は冷蔵庫から出したサラダをテーブルに置くついでに、海星の頭に軽く手刀を落とす。

「いてっ!」

「子供がそんな事聞くんじゃないの」

「……自分から言ったんじゃん」

 海星は不服そうな顔で母を見返す。


「とにかく! わだかまりは早いとこ解消したほうがいいって事よ!」

 勢いで乗りきろうとする母に呆れた海星は、結局暁那の事を胸にしまったままその日を終えた。


 ◇


 翌日の放課後、海星はある家の前に足を運ぶ。

 白を基調にした、大きくて立派な家。灰色の門の縁に手をかけ、海星は懐かしむようにその家を見上げた。


 (久しぶりだけど、おっきな家だな……子供だったとは言え、よく遠慮なしに入り浸ってたもんだよ)


 高校生になった今訪れると、気後れしてしまいそうな門構えに、海星はインターホンを押すのすら躊躇っていた。


「……よしっ、押すぞ!」  

 ようやく覚悟を決めてインターホンに指が触れた瞬間、海星の肩をトンと何者かが叩く。


「わぁ!?」

「ひゃ! ごめんなさいっ」


 海星の叫び声と同時に聞こえたのは女性の声。後を振り向くと、一人の中年の女性が申し訳なさそうな顔で立っていた。

「……アキの、お母さん」

 目を丸くして呟いた海星に、女性は嬉しそうな顔で微笑みかけた。

「やっぱり、海星くん! もしかしてと思って、つい肩なんて叩いちゃって……驚かせてごめんなさい」

「あ、いえ! こちらこそ、おっきい声出しちゃって……」

 目を合わせずに返事をした後、海星は高鳴る胸を落ち着かせるように軽く深呼吸をする。


「はぁ……あの! アキは、今どこにいるんですか?」

 海星の問いに、母親は少し悲しそうな笑顔を見せた。

「……お母さんに聞いたんだね」

「はい」

 海星は母親の顔を真っ直ぐ見て答える。


「暁那、今は隣町のアパートで暮らしてるの……て言っても、閉じ込められてるようなものね、きっと」

 母親は自分の家を、どこか遠くを見るような顔で見つめていた。

「どうして、その……引きこもりになっちゃたんですか?」

「それは、私からは言えないわ……でも」

 母親は言葉を止めると、鞄からメモとペンを取りだし、さらさらと何かを書き記す。


「……良かったら様子を見に行ってあげて。海星くんなら、あの子も心を開いてくれるかも知れないから」

 そう言って母親から握り込まされたのは、アパートの住所が書かれた紙だった。

 

 海星はそれを戸惑いの表情で見つめる。

 居場所を突き止めたい気持ちはあった。けれどいざ会えるとわかると、どんな顔をすれば良いのかがわからない。

 自分の都合で突然会わなくなって5年。何を言えばいい? 励ますような言葉など、理由もわからないのにかけられる筈もない。

 海星はぐるぐると同じところを回るような思考が止まらなかった。


「私たちにはもう、きっとあの子は本心を言わない……だから海星くん、暁那を助けてあげて」

 母親の震える声にハッとし、海星はその顔を上げる。

 よく見ると以前よりも増えた白髪と、血色の悪い顔がそこにはあった。


 (俺に、何か出来るのか?……アキから離れた俺に)


 そんな思いとは逆に、海星は母親に明るく微笑む。

「俺、行くよ。アキに、会ってきます」

 海星の答えに、母親は掠れた声で「ありがとう」と呟き、俯いた顔からは雫が零れていた。


 ◇


 海星が帰った後、暁那は綺麗に整理整頓された部屋の隅で、借りてきた猫のように体育座りをする。

 ゴミ袋は変わらずそのままだが、玄関の方にまとめられ、散乱していた本は並べられて、衣類は畳まれ収納されていた。

 まるで自分の部屋ではないような感覚に戸惑い、暁那は心を落ち着かせるように、本棚から一冊の本を手にする。

 何度も読んでいる本のページをめくりながら、頭は勝手に海星の事を想う。


「本当に……明日も、来るのかな……カイ」


 海星の事を想うと、暁那の胸は自然に高鳴る。

 もう5年は会っていない彼が、どうして突然現れたのかもわからない。

 力になりたい……そう言った彼の言葉に、暁那の心は少しだけ軽くなっていた。しかしそれを遮るように、あの男の笑い声が甦る。


『あいつマジ重い』

『話のネタに泳がせてもいいんだけど、流石にもう無理だわー』

 

 暁那は壁に本を放り投げ、震えるように地べたにうずくまる。


「嫌だ……あんな思いはもう……もうしたくないっ」


 海星の事を信じるよりも先に、裏切られる事を考えてしまう。

 宰斗に裏切られた記憶は、暁那の心に根深い傷を刻み込んでいた。

  

     

  

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