第六話 入試ロマンティック③

 手が震えた。

 ここからは一つのミスも許されない。

 僕はそれを手に握り締めると、三時限目の教室に向かっていく。ちらちらと喜多の視線を感じた。もしかして、バレているのだろうか。僕がこれからしようとしていること(。既に推理し見抜いているのではないか。大きな恐怖感に狂いそうになる。

 試験教室に入り、僕はそっと視線を巡らした。……よし、問題無し。そのまま窓側の方に向かい、待機の姿勢を作る。

 角野先生が台本を手に取った。


「では、これより三時限目の試験を始めます」


 角野先生の声には張りがある。それは牧田先生にはないものだった。角野先生の声に従い、受験生は片付けを始めた。

 台本には決められた台詞と、決められた間というものがある。角野先生はそれを演じる役者だ。一際冷たい声が教室に響く。


「机に置いてもよいのは、鉛筆、シャーペン、消しゴム、受験票のみです。それ以外は鞄の中に入れてください」


 僕はそっと机の上を確認した。――筆記用具を忘れた受験生がいないかどうか。反射的に探っている自分がいるのだ。もちろん、一時限目で確認済みのため、そんな受験生はいない。あのカンニングの暗号が見せる幻だ。

 既に三時限目ということもあり、受験生の動きも非常にスムーズである。一日目の忙しなさが懐かしくも思える。

 問題用紙と答案用紙の配布が始まる。

 僕の身体に自然と緊張が走った。――ここだ。このタイミングだ。

 僕は問題用紙を手に取った。少しだけ手が震えた。喜多は僕に視線を向け、頷く。僕も頷きを返し、窓側の席へ進んでいく。

 問題用紙の配布が始まった。僕は一人一人の机の上にそれを置いていった。そして。

 計画の第一段階が終わりを迎えた。手が汗で滲んでいた。上手く問題用紙を配ることができない。もう終わった。後は待つだけだ。それなのにどうしてこんなにも緊張している。

 壇上に戻り、答案用紙の配布へ移る。その時、ちょうど問題用紙の配布を終えた喜多とすれ違う。慎重に、僕は配布の役割を終えた。

 時刻、十四時二十五分。


「――それでは、試験が始まるまで暫くお待ち下さい」


 僕は席に座った。ちらりと受験生の方に視線を向けた。受験生は問題用紙に目を落としている。

 もう僕は一線を越えている。

 今更後戻りはできないのだ。

 どこからか時計の針が聴こえてきた。チク、タク、チク、タク――。均等に、規則的に、それは鳴り響く。まるで僕の背中を押すように。


「――それでは、試験を開始してください」


 紙を開く音が混じった。


  ◇


 ジリジリと時間は削れていく。

 一分、一秒。時間の流れがあまりにも遅く感じた。僕の時間が遅くなっているのか、入試時間が伸びているのか、あるいは両方か。僕の時間軸は曖昧になっていく。

 やがて。

 三時限目は終わりを告げた。

 角野先生が台本を手に取るのがわかった。言い放たれた台詞により、受験生の間に安堵の空気が洩れ始める。僕だけ。あるいは、僕達だけ。緊張感を纏っていたのは、それだけ。


「問題用紙・答案用紙には触れないようにしてください。回収が終わる合図があるまで静かに待っていてください。では、これより問題用紙を――」

「えっ?」


 僕は思わず声を洩らしていた。角野先生が僕の方に振り向いた。ん? と首を傾げるポーズ。その様子を見て慌てた。


「先生。問題用紙は――」

「――ん。あ、ああ」


 納得したように角野先生は頷いた。気が緩んだのか、小さな笑みすら浮かんでいる。


「――失礼いたしました。これより答案用紙のみを回収します」


 僕は足早に窓側の席に向かう。答案用紙を手に取り、一枚一枚確認していった。受験生の顔を確認した。覚悟を決めたような顔だった。僕は答案用紙を受け取った。

 全てを回収し、枚数の確認を始めた。――枚数の洩れはなかった。もちろん、増えることもない。僕と喜多は角野先生に手渡す。最終確認が始まる。

 僕はさり気なくポケットに手を入れた。


「――枚数の確認が取れました」


 角野先生が最後の演技を見せた。


「――尚、近頃、合否連絡を請け負う業者がいると聞いておりますが、本学とは一切の関係がありません。ご承知おきください」


 そこで今までの役者の顔から、角野先生本来の顔が垣間見える。ふっと零した笑みで受験生に言った。


「試験、お疲れ様でした」


 これにて、M大学の試験は終了である。


  ◇


 二日目の終わりは片付けのみである。

 ――が、内容は一日目の比ではない。外に設置した看板や案内板、一度撤去した掲示物のつけ直し等、しなければならないことは山程ある。

 僕はやり切った感に身を委ねていた。そう、僕はやり切った。この計画をやり遂げることができた。そこには達成感と罪悪感が同時に発生している。僅かに、罪悪感の方が強い。

 待機室で時間を潰しているとスタッフが顔を見せた。片付けの移動を促された。僕はスタッフの指示に従い、エレベータに向かおうとする。

 その寸前、袖を引っ張られる感触。僕は途端に動けなくなった。――振り向くと、彼女がいる。喜多が僕を見ていた。


「ねえ、サボらない?」


 僕は喜多の言葉を断ることができなかった。彼女の声音には強い魔力が秘められていた。だからこそ、僕は頷いている。この人から逃れられない。そう、本能が理解している。

 六号館五階からエレベータに乗り、一階まで降りていく。人の流れから僅かに逸れて、僕達は自然に抜け出した。場所は四号館に向かっている。いつだったか、ニシがサボる場所として最適と言った場所だ。入試に使われていない教室を選び、僕達は足を踏み入れた。

 暖房機器が作動していないため、中は冷え切っていた。白い息が洩れた。誰もいない、僕達しかいない教室。


「喜多さんからサボりの誘いがあるなんて思いませんでした」

「だから勘違いしてるよ、比嘉君は。私はそこまで大した人間じゃないんだから」


 御冗談を――、と言いかけた口を閉ざす。少なくとも喜多は本気でそう思い込んでいるようだった。その原因にもおおよその察しはついている。

 僕は首を振り、疲れたようなポーズを作った。


「それでどうして急にサボるなんて言い出したんですか? 理由があるんですよね?」


 ここに見えない台本がある。僕達はそれに綴られた台詞を口にしていた。僕はこの先にどんな台詞があるのか理解している。ふっ、と喜多は微笑む。その仕草すら台本に記された動作に過ぎないのか。


「――比嘉君。私に何か隠し事をしているでしょう?」


 僕は彼女にバレてはいけない。そのために必死の抵抗をしなければならない。


  ◇


「――隠し事、ですか?」


 奥底で震える動揺を殺し、僕は聞き返す。引き攣る頬に無理やり笑顔を作った。


「何を言っているのか、……よくわからないんですけど?」


 完全にしらばっくれるのは無理だ。違和感は与えてしまっている。ただ不透明さを残す台詞を選び取る。これは僕と喜多の戦いだ。

 同時に、僕は確信している。喜多が結論に行き着くことはあり得ない。

 喜多は首を振る。そして、机の上に腰を下ろした。喜多の瞳はすぅと細くなる。一段と教室の空気が冷えていくのを感じた。


「今日の試験一日、比嘉君の様子はとてもおかしかった。けど、貴方はそうではないと言っている。何か隠しているんだなと思ったの」

「緊張してたんです」

「一日目があったのに?」

「あったからこそです」


 慎重に僕は言葉を紡いでいく。何か一つでも矛盾は起きてはいけない。言い訳がましく聞こえてもいけない。あくまでも正しく聞こえる話を作る必要がある。


「一日目、多くの謎に僕達は遭いました」

「うん」

「また、それが起きるかもしれない。緊張しないはずがないです。特に、鉛筆の神隠しみたいな――」

「それ、試験前にも訊いてたね」

「そうです。僕にはまだその覚悟がありません。だから、緊張してしまったんです」


 喜多は暫くの間、考える素振りを見せていた。訪れる沈黙は居心地が悪かった。つい口を開いてしまいそうになる。言葉を募りたくなる。が、それは逆効果だ。疚しさを隠したがっているように見えてしまう。

 僕は僕らしく、困惑した姿を作った方がいい。


「……嘘らしくは聞こえないね」


 ぽつり、と。彼女は言った。嘘らしくは。非常に含みのある表現だった。


「たくさんの謎があった。私が経験してきた入試の中でも一番の多さだったと思う。けど、今私は、一番謎らしい謎を目の前にしているよ」


 貴方だよ。

 喜多は僕を見据えた。


「じゃあ、雪解けを始めましょう」


 不敵に笑う喜多に僕は恐怖を覚えた。

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