第六話 入試ロマンティック②
今回、僕達が担当する教室は一号館三階、一番端の教室だ。六号館からその試験教室までの距離は中々のものであり、腕にのしかかる重さに内心悲鳴を上げた。
「大教室ではないのだから、鉛筆の神隠しは起きないわ」
喜多はなんてことのない調子で言ってみせる。僕は苦笑を浮かべる。あの謎は僕にとっては苦い体験だ。告発する勇気も覚悟もない。そんな自分を突きつけられた。
少なくとも僕は入試を通して、変わり始めている気がする。必ずしも大きな成長とはいかないものの、喜多という存在に感化されているのを自覚した。
仮にもう一度、鉛筆の神隠しがあれば。僕は鉛筆を拾うことができるだろうか。それだけの覚悟を持って臨むことができるだろうか。
そういえば。
僕はふと尋ねたい衝動に襲われた。
「……喜多さん」
「ん?」
「鉛筆の神隠しのことで訊きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「いいよ」
僕は微かに唾を飲み、口にした。
「喜多さんだったら、あの不正行為をどうしてましたか?」
「私なら?」
「そうです」
喜多の入試アルバイトに対する姿勢はまさにスタッフの鑑だ。喜多さんは考える素振りを見せなかった。即答で口にした。
「比嘉君と同じ選択を取るよ」
きっと見なかったことにする。――そう彼女は言うのだ。僕は小さく息を呑んだ。その答えは正直意外でもあったからだ。僕の反応を察した喜多は薄っすらと笑みを作った。
「比嘉君。貴方は根本的に私のことを勘違いしているよ」
「か、勘違い、ですか?」
「そう。私は何でもかんでも知っているわけじゃないし、何もかもを見通しているわけじゃない。もっと俗物的な人間なんだよ、私は」
「そんなことは――」
ぐっと言葉を堪えた。喜多の鋭い視線が僕を貫いていたからだ。その瞳が微かに揺れていた。まるで何かを訴えているように思えたのだ。
「いつか、私なんて大した人間じゃないってことに貴方は気付くと思うよ」
歩みが止まる。いつの間にか試験教室の前まで来ていた。角野先生は悠々と扉を開けた。ゆっくりと中に入っていく。喜多もそれに続いた。既に監督補助としての振る舞いになっていた。
僕だけが、僅かに遅れた。
そっと試験教室に足を踏み入れる。次の瞬間、慣れない緊張感が身体を包んだ。一斉に視線が集まったのがわかる。そのまま視線を巡らし。
僕はその瞬間、禁忌に触れた。
◇
意識がぼんやりとしていた。
そのためか、自分でもらしくないミスを連発した。喜多には訝しげな視線を向けられている。僕は鼓動の音がうるさくて仕方がなかった。――どうすればいい? それだけが僕の頭の中でぐるぐると回っていた。
一時限目の試験はいつの間にか終わっていた。僕は疲労感に襲われた。一瞬だけ頭にもたげた計画。それは決して許されないことだ。
「――角野先生、あれだけ言って失敗するなんて。……比嘉君?」
「は、はい?」
待機室で僕達は弁当を突いている。角野先生のミスを喜多は指摘していたようだ。慌てて頷くが、喜多の目に疑惑の色が宿った。
「比嘉君。体調でも悪いの?」
「えっ? い、いやいやいや。大丈夫ですよ」
「……そう? それにしては様子が変に見えたけど。ぼんやりしてるし」
喜多は鋭い人だ。いや、僕がわかりやすすぎるだけなのか。どちらもという可能性もある。喜多を前に隠し通せる自信は無かった。
それでも、隠さなければならない。僕はそれを決して表に出してはならないのだ。
「い、いえ。何でもないです」
「そう」
喜多が僕の疑心の目を向けているのは間違いない。だからこそ、胸の内に抱いた計画は今すぐにでも止めるべきなのだ。僕は必死に逆らった。止めろ。止めろ。そんな禁忌地味たこと、考えるな。
◇
しかし、二時限目の終わりにて、僕の決意は呆気なく崩れることになる。
この試験教室は大教室とは異なり、人数がぎゅうぎゅうに引き詰められている。座席は窓側半分が教育学科、廊下側半分が幼児教育学科だ。窮屈な空間であるため、入試監督と監督補助は壇上の前に腰を下ろしている。一面を見渡せる状況というわけだ。
二時限目の終わり、角野先生の指示によって答案用紙の回収が始まる。僕は幼児教育学科の席に進み、答案用紙を回収していく。できる限り、僕は受験生の顔を見ないよう心掛けた。答案用紙を一枚一枚ずつ受け取っていく。そして。
鼓動が、一つ高鳴る。
僕は反射的に喜多を見ていた。喜多もまた答案用紙の回収に意識を傾けていた。僕は唾を飲んだ。
答案用紙の回収は終えた。
崩れゆく決意が緩やかに再生していく。
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