南蛇井と現実。 -1

 高校生になって、一週間とちょっと。

 ようやく高校の時間割にも身体が慣れてきた。中学の頃よりも一科目辺りの授業時間が長くなっているせいで、終盤まで集中力が持たずに苦労している。どうせ学生達のやる気なんてゲームと漫画にしか向かないんだから、と教科書を読むだけの退屈な授業をする先生までいたのが残念だ。進学校にもそんな先生が存在するのか、と逆にびっくりして目が覚めた。やはり、適材適所とはいかないことも多いようだ。

「……はぁ」

 理想と現実の違いと言えば、他にもある。

 南蛇井や北村とは別のクラスになってしまった。

「憂鬱だ」

 せっかくアトランダムな振り分けだったのに、運命の女神様は僕に微笑んでくれない。嫉妬深いのかもね。クラスが学籍番号の通り五十音順で分けられていたら絶対に一緒になれなかったからこそ、クラス分けには若干の期待もあったのだけど。

「……友達作るの、難しいのに」

 せめて知り合いがいればなぁ。

 用事もないのに自分から話しかけるの、無理ゲーだよ。

 会話を振られたら応える努力もしているけれど、まだ手探りの状況だ。一人称を直した方がいいのかな? でも、僕が僕であるためには……、とか色々なことを考えていたら職員室の前に来ていた。移動教室での授業を終えて自分のクラスへと戻るところだったのに、かなりぼーっとしていたらしい。

 西と東、どちらへ歩く方が近道かなと廊下の左右に首を振る。

「あっ、あれは……」


 生徒指導室の前で、南蛇井が先生と睨み合っているのを発見した。

 あかんやつや、と方言が漏れる。

「だからなんだってんだよ」

 と、南蛇井が噛みつく声が聞こえる。

 腕組みをした南蛇井は、遠目でも分かるほど殺気立っていた。くすんだ色合いの赤い髪が、彼女の怒気を受けて炎のように揺らめいている。彼女が暴れる前に止められるようにと、慌てて駆け寄った。あ、駆け寄ったのは嘘ね。走らないギリギリの速度で早歩きした。

 助け船のつもりが飛び火して、延焼なんてことになったら目も当てられないぜ。

 南蛇井に相対するのは生徒指導の担当者だった。僕も朝の挨拶で声が小さいと三日連続で怒られたので、顔はよく覚えている。竹刀を肩に担ぐ人に向けてにこやかな挨拶をするなんて、割と強靭な神経がないと無理だと思うけどな。

 それはそれとして。

 無言で睨み合うふたりに手が届く距離だ。

 でも、声を掛けられる雰囲気じゃない。


 先に口火を切ったのは南蛇井だった。

「もう帰っていいっすか? 昼休みなんすけど」

「まだ話は終わってないだろ」

「そっすか。んじゃ、用件をどうぞ。さっきは聞こえなかったんでね」

「髪を染めるな。お前の頭髪は指導の対象だと、入学式の日にも言ったよな」

「これは地毛だっつーの。何度も言ってんじゃんか。聞こえてねーのはそっちだろ。あたしの髪のどこが不適切なんだよ」

「髪染めする生徒はウチに相応しくない。そういう話をしているんだ」

「は? だーかーら、地毛だって言ってんだろ。てか髪の色で品性決めつけられたくねーわ」

 南蛇井の額には欠陥が浮かんでいた。

 腕組みした手が、ぴく、ぴく、と跳ねている。

 かなり危険な兆候だ。南蛇井は正道を外れた、理不尽なことが大嫌いな子だ。不良として扱われることも多いけれど、それは粗野な言動と赤い髪がヤンキーっぽい、と誤解を受けているに過ぎない。授業はとても真剣に受けているし、体育祭や文化祭のイベントも張り切って参加するタイプのいい子ちゃんだ。隙さえあれば学校をサボろうとする僕に比べて、二千倍くらいは真面目な子だと言っていい。

 年上に対しても敬意を払うはずの彼女がキレているのは、よほど異常なことだ。

 恐らく……というかほぼ間違いなく、あの生徒指導の先生が南蛇井に対して威圧的な態度を取ったのだろう。短いやり取りを見ていただけでも分かる。権威を振りかざす大人は南蛇井の嫌うタイプだ。

 喧嘩が始まる前にと、僕は慌てて割って入った。

「やっほ、南蛇井」

「あ゙? ……ああ、波久礼か。ヤなとこ見られちゃったな」

「気にしないよ。髪のことで指導を受けてたのかい」

「あぁ。よく分かったな。その通りだよ」

 だって、横から見てたし。中学時代も見慣れた光景だから。

 南蛇井の隣に立って、生徒指導の先生を見上げる。

 髪を短く刈り上げた大柄な男は、南蛇井に向けていた鋭い目の矛先を僕に変えた。日に焼けた筋肉質な腕が動いて、彼は腰に手を当てる。値踏みするように僕を頭のてっぺんから爪先まで眺めた後、小さく鼻を鳴らした。

 同じ穴のムジナと笑われている気がして、なんだか不快だった。

 南蛇井が口を開くと、吐息の代わりに愚痴が漏れた。

「あたしの赤い髪はじいちゃんからの遺伝なのに、こいつ聞いてくんねーんだよ」

「説明は?」

「したよ。波久礼からも言ってやってくれよ」

 南蛇井が生徒指導の先生を顎で示す。そもそも、髪を染めただけじゃ校則違反にならない。

 僕が向き直ると、彼は再び鼻を鳴らした。

「お前は?」

「南蛇井の、友人です。中学が一緒でした」

 元カノって言い掛けたのをぐっと堪えた。偉いぞ、僕。

 冷静に、慎重に、僕は言葉を選んで説明する。

「南蛇井の髪の色は、彼女のお爺さんからの遺伝ですよ」

「そうか。……それで?」

「それで、とは?」

 言葉の意味が分からないので問い返す。

 分からないってのは嘘だ。彼が何を言いたいのか、僕は知っている。生徒指導員が目元に浮かべた感情は僕や南蛇井が幾度となく経験してきたものだ。飽きるほどに見覚えのある侮蔑と嘲笑、それを否応なく示す嫌な笑みを浮かべている。

 あぁ、ダメかも。

 僕もこの先生を好きにはなれないな。

「お前ら、この広垣東高校は進学校だぞ? 髪を染めて遊んでいる生徒がいるなんて悪評が経てば、推薦を受ける生徒が不利になるじゃないか。お前のせいで、他の子が苦しむんだぞ」

「髪を染めたら遊んでるなんて、いつの時代の偏見ですか」

「……そーいや、この学校はアルバイト先にも指定があったよな」

「はっ、問題児のくせに詳しいな。それも学業に集中するために必要な規則なんだ。いいか? 自由と無法の区別もつかない子供が、大人の考えたルールに口出しするんじゃない」

 鼻を鳴らした生徒指導の言葉に、僕達は揃って首を傾げる。

 ここで反抗しても意味がないのかもしれない。正論っぽく聞こえるだけの建前を並べ立てる彼には、こちらもおべっかで愛想よく笑っていれば丸く収まるのかもしれない。

 かもしれない。

 で?

「そんな指導しか出来ないんじゃ、先生もその程度の人なんですね」

 微かな毒を吐く。内心で揺らめく炎を押さえながら。

 気に障ったのか、ぴくりと男の眉と肩が跳ねる。太い腕が感情任せに動いて、反抗的な僕の制服を掴もうとした。だが、男が動くより早く南蛇井が組んでいた腕を解いている。

 彼が伸ばした手が僕に触れるよりも早く、友人の拳が先生の顎の下に張り付いていた。手を出せば終わり、僕達が悪者になることを知っているから、南蛇井もちゃんと寸止めしているようだ。

「ダメだよ、南蛇井。暴力は」

「応とも。あたしは絶対、先には手を出さねぇから」

「ふふっ……。よく言うよ、まったく」

 これが卒業式の日に、僕を殴り倒した女の子の言い分である。本当に同一人物だろうかなどとジョークを言うのは控えておこう。あの日は僕が働いた不義理を清算しただけだし、互いに納得済みの案件だ。今日のそれとは、毛色が違う。

「手を引っ込めろよ、おい」

 南蛇井がすごむと、先生が手を引いた。隣にいた僕すら身がすくむような圧に、不敵な笑みを浮かべていたはずの先生も冷や汗をかいている。どうやら攻め込むには絶好の機会が巡って来たらしい。

「ねぇ、先生。一言いいですか?」

 僕は敵愾心を隠せない。

 ハグレ者の矜持、少しだけ披露しておこう。

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