三原色の海
松山リョウ
第1話
「––それと、本日は、ご覧の通り、ご覧の通りって見えんのですけど、まあ暑いです。え~、こまめな水分補給を忘れずにですね––」
水島彩のまごついた声を、中庭に群れるセミの声が邪魔をする。ツクツクと喚き散らすセミたちの合唱を聞きながら、まとまりのない彩の話を頭に入れるのは至難の業だ。私は早々に理解することを諦めて教室に集まる学生たちを観察し始めた。真剣に聞いているのは彩と同じ美術部の人間だ。体操着をだらりと着崩しているのは同じクラスの中原。後ろのほうの男子は気だるさを隠そうともせずに自分のつま先を眺めていた。
文武両道を謳う湯ノ石東高校は、勉学とともに学校行事にも力を入れていた。梅雨前のボートレース大会、夏と冬の球技大会などいろいろあるが、なかでもいちばんの目玉行事となるのが九月に行なわれる体育祭だ。全校生徒が四チームにわかれて競い合う。それぞれのチームはリーダーとなる「総長」と応援団が取り仕切る。開催一カ月前の八月中旬から本格的な準備がはじまり、この準備期間こそ我が生涯と言わんばかりに総長たちは校舎をエネルギッシュに駆け回っていた。
「ほしたら、各自作業をお願いします」
彩の指示で三十名ほどいるパネル係が持ち場に散らばる。彩に「お疲れ様」と声をかけると、控えめな笑顔を浮かべて教室を出て行ってしまった。私も別段仲良くするつもりはないので自分のパートとなる絵に向き合う。
我が校では、体育祭での生徒の待機所となる「櫓」を自分たちで作らなければならない。櫓という言い方をしているが、実際は竹とベニヤ板を縄で縛り組み立てられたお立ち台に近い。横幅三十メートル、高さ八メートルにもなり、三段の階段状につけられた台の上で各種目を観戦し、昼下がりに行なわれる応援合戦では太鼓のリズムに合わせて声をからして飛び跳ねる。
大道具係、衣装係、ダンス係……。多様な係がいるなかで、櫓係と並んで重要な役割となるのがパネル係だ。櫓の上部に貼られる巨大な絵を描く役割。朝昼夜で入れ替えが起きるので3枚作成しなければならない。体育祭の得点に「パネル部門」があり、チームの勝敗に直結してくること、また、その迫力ある絵を見にくるOBたちも多いこともあって、パネル係は毎年花形として持て囃されている。
「なんか思うたより作業早よ進んでない?」
隣でハケを握る田村夏樹が声をかけてきた。
「あと二日もあったら終わってまうやろ、コレ」
「はよ終わる分にはええやん。『黒龍』はまだ二枚目の色塗り段階らしいで」
私は雲から落ちる稲妻に黄色を塗りたくりながら答える。
「マジ? 逆にそれはやばいやろ」
「パネル長の銀二くん? ウチはよう知らん人やけど、優柔不断らしくって。ラフの決定でもめとったんやと。おっつんが嘆いとったわ」
ああ~と夏樹が気の抜けた返事をする。
「銀二かぁ。アイツ絵心ないやろ。なんでパネル長になんかなったんや」
「内申点稼ぎやろ」
私の言葉に夏樹が嘲笑する。
「パネル長になりました~なんてホンマに内申点なるん?」
「なんもないよりはええんやない? そんなんする暇あったら勉強しとけやって思うけどな」
推薦受験を前にした受験生にとって、体育祭での活動は自己PRにうってつけらしく、応援団や各係長の半数はその内申点を狙っての立候補だと聞く。
「『勉強しとけ』は耳が痛いわ~。––
後方にあった塗料缶を夏樹に渡す。
「あざっす––その点ウチらは健全よな。彩ちゃんは純粋に絵の実力で選ばれたんやろ?」
「……まあ、ほうやな。絵は任せとったら間違いないわ」
詰まった言葉をごまかすように黒いペンキにハケを突っ込む。バチュと鈍い音を立てて飛沫が塗料缶の内側に飛び散る。
水島彩。美術部所属。身長はクラスの女子でいちばん高く、赤い眼鏡と二つ結びがトレードマーク。大人しい性格で、クラスでは林田真理と仲がいい。絵がうまい。
今の水島彩について語れることはそのくらいだ。向こうも私––薄墨茉莉のことは同程度の情報しか知らないだろう。彼女がパネル長で、私が副長にならなければ、クラスで二人きりで言葉を交わすことはなかったかもしれない。
私の歯切れの悪い返答を気にしたのか、夏樹がハケをこちらに向ける。
「せやけど茉莉が副長でバランス取れとるわ。目つき怖いけん、後輩にも舐められんし。彩ちゃんぽわぽわしとるけん、鬼の副長がおらんかったら統制取れとらんかったかも」
「ウチは土方歳三か」と突っ込みを入れて雷雲の下部に黒を打ち付ける。確かに彩だけでは上手くまとまらなかっただろう。私は良くも悪くもはっきり物事を言うタイプなので、彩が不得意とする指示出しや相談役を引き受けられる。
それはそれで立派な仕事だ。絵がうまく描けることよりも、むしろ実用的な能力だろう。
黒を引き延ばす。どろりと鈍い光沢を帯びたペンキは、私の意識を飲み込んでくれる。やっぱり黒はいい。
黒はいちばん大事な色で、だからこそ頼りすぎるとバランスが崩れてしまう色。小学生のころ、美術の先生にそう習った記憶がある。
「なあ、茉莉」
夏樹がハケを水に浸けながらぽつりと零す。
「今日もう帰ってもええ?」
「はあ? ……いやもともと強制参加やないけんええけど。なんで?」
夏樹は申し訳なさそうにこちらを上目遣いで見つめてくる。
「さっき豪から連絡きたんよ。今日部活ないんやって。やけん、まあ、ほら、……言わせんなやっ!」
なにも言っていないのに肩を小突いてくる。申し訳なさの持続が短い。最後のほうはただの惚気になっていた。こういう素直なところが夏樹のいいところだ。
「わかったわかった。せやけど、半田くんのほうはええん? 櫓係やなかった?」
「櫓なんてどうせ最後はチーム総出で作り上げるやん。『みんなの力が必要なんや!』とか言うて。こっちももうなんとかなりそうやし!」
せこせこと近くにあった雑巾でハケを拭く。さっきまでの気だるさが嘘のようだ。
作業自体は人手が足りているしなんの問題もない。ないのだが、私とのお喋りをさっさと終わらせようとする態度がなんとなく腹が立った。
こっそりと右手の人差し指に赤いペンキを浸けて「夏樹」と呼びかける。にこやかに振り向いたその頬に、赤いバッテン印を描いた。
「ちょ、なにするんよ!」
慌てて拭こうとする夏樹の手を制止する。
「すぐ拭いたらあかん、赤く汚れるだけや! ええやん。かわいくて」
夏樹は下唇をぬっと突き出して、教室の隅のカバンを取りに行った。カバンから取り出した手鏡を見て、さらに顔をくしゃくしゃにしぼめた。
結局、夏樹は頬にバツ印をつけたまま足早にいなくなってしまった。教室には私以外に1年生の男子グループが残っており、色のついていないハケを空中で振り回していた。私は軽く注意をしてから、教室を後にした。見回りついでに、彩の様子を見に行きたかった。
*
体育祭の運営は2年生が取り仕切る。3年生は受験に向けて勉学に励まなければいけないためであるが、勉強に飽き飽きしている3年生のなかには準備に参加するものもいる。1・2年生も夏休み期間中なので強制参加ではない。ただ青春の場という意味ではこれ以上の舞台はなかなかないので、8割方の生徒は参加している。
パネル絵は横幅三十メートルにおよぶため、六メートルごとに区切って、それぞれが完成直前の最終の色塗りの前に繋ぎ止められる。ラフの段階で一度見ているとはいえ、完成の過程が普通の一枚絵よりも見えづらい。なので、長や副長が全体を見通しておかなければならない。
今取り掛かっているのは昼の部の巨大絵。雷雲と暴風が立ち込める世界で、一匹の鹿が空に嘶き、青空を呼び出すという構図。私たちのチーム「青鹿」になぞらえた作品。原案は彩が作り上げた。
すでに朝の部と夕の部の絵は出来上がっていたので、この昼の部の絵が出来上がれば、私たちの活動は終了となる。
各教室を回ってみても、なかなか順調に思えた。「先輩、先輩」と後輩に声をかけられるのも悪い気はしない。
「これ見てくださいよ、茉莉先輩」
後輩の鈴谷がポニーテールを揺らしながら足元の絵を指さす。地面に伏す虎が描かれている。ほかのグループの「銀虎」を表したもので、中央の鹿に向けて吠えている様子が表現される––はずなのだが、ラフ段階よりもやたらかわいらしく見える。違和感の正体はすぐにわかった。ラフでは目元が腕で隠され口元をきつく閉じていたが、今はぐりぐりとした目元が見開かれ、だらしなく開いた口元からは舌がはみ出していた。
「かわいくないですか?」
悪びれもせず鈴谷が笑顔を向けてくる。取り巻きの後輩2人も後ろで小突き合いながら同調する。
「かわええけど……ラフとちゃうんやない?」
「はい、変えたんです。こっちのほうがええと思って」
「……彩には言うてるん?」
「言うてないです」
笑顔を変えずにそう告げた。私は少し笑顔を消して鈴谷に告げる。
「鈴ちん、絵を変えたいときはちゃんと彩かウチに相談しろって言うたやろ」
鈴谷は顔をしかめて、駄々をこねるように体をふらふらと揺らす。
「せやけど相談しても彩先輩は絶対に譲らんやないですか。ここの虎の足とか変にねじ曲がっとって、おかしかったもん」
なあ、と後ろの取り巻きに同意を求めて、返答を確認する前に続ける。
「それに、元の絵やとなにを表わしとるんかようわからんですよ。どうせ敵チームの銀虎を描くなら負けて吃驚仰天しとる姿のほうがええですって」
私は漏れ出そうになるため息を飲み込み、「後で彩と相談しとくけん」と言葉を残してその場を去った。
*
彩は空き教室にひとりでいた。
前扉からこっそり覗き込む。夕日が差し込む教室で、私と黒板に背を向けるように教室の真ん中に佇んでいた。机と椅子はほとんど片付けられていたが、唯一ひとつだけ椅子が彩の傍らに置かれている。彩の足元を取り囲む三つの塗料缶は見張り塔のようだ。
運動場から櫓係の喧騒が耳に届く。応援団の練習だろう、和太鼓がどんどんと拍子をとるのも聞こえてきた。そんなにぎやかな外空間とは対照的に、彩と床に敷かれた鹿の絵は沈黙をよしとしていた。
パネル長は、水島彩さんのほうが適任やと思います。
パネル長に推薦されたときの私の言葉だ。体育祭への情熱は高いほうではないし、内申点にも興味がなかった。長という責任ある役割に任命されるのが嫌だったから、誰でもいいから代わりがほしくて、彩の名前を出した。
私から推薦された彩は困ったように笑みを浮かべたあと、「一日、考える時間をもらってもええですか?」と言った。
まあ断るだろうと考えていた私は驚いた。そして翌日パネル長を引き受けると返事をしたときには、自分で推薦したくせに「本当にええの?」と念を押した。
やはり彩は困ったように笑みを浮かべるばかりで、なんとなく罪悪感が沸いた私は副長に立候補した。
「薄墨さんとゆっくり話すん、小学校以来やね」
副長になったことを告げると、彩は私を見下ろしながら微笑んだ。「小学生のころのことなんて、あんま覚えとらんよ」と、私はすっとぼけて見せた。
*
私と彩は小学生の頃、同じ学校に通っていた。一度同じクラスになったが互いに友人はほかにおり、ほとんど会話をすることはなかった。
記憶に残るのは会話よりも鮮やかな色だ。小学二年生の写生大会で、彩が絵の具ケースから取り出したのは二十四色の絵の具だった。レモンイエロー、アクアマリン、ビリジアン。同級生のほとんどが十二色の絵の具を使っていたときに、聞いたこともない色がパレットを彩っていた。クラスで目立たなかった彩も、この日は物珍しさに人に囲まれていた。
私はなんとなく気に入らなかった。私も絵を描くのが好きだった。絵がうまい自信だってあった。なのに二十四色持っているのは彩で、まだ色塗りもしていないのに彩ばかりが持て囃されている。
「色の数が絵の価値やないけんね」
彩と二人になったときにその言葉を投げつけた。なんと返されたかは覚えていない。
後日行なわれた寸評会で優秀賞をとったのは、彩の絵だった。私は裏面に「よくできました」の花丸がつけられた自分の絵を、ゴミ箱に丸めて捨てた。
それぞれ別の中学校に通っていたので、高校入学時は彩が同じ校舎にいることに気づかなかった。後から考えると廊下で何度かすれ違っていたのだが、身長が伸びて眼鏡をかけるようになっていたので昔日の記憶の彩と同一人物だと結び付けられなかった。
彩の存在に気付いたのは、美術部による絵画展示場だった。入場したのは偶然だった。友人との待ち合わせの場に少し早くきてしまったので、待っている間にふらりと立ち寄っただけ。手持ち無沙汰を解消するための手段でしかなかった。ふらふらと目を滑らせていくなかで、ふと一枚の絵が目を引いた。
梅雨の下校風景と紫陽花を描いた絵だった。青基調で雨天特有の陰鬱とした雰囲気を出しながら水たまりに映る生徒たちの華やかさを表現した水彩画。華やかな色彩の絵が目立つなかで、その絵はひときわ沈んで見えた。
ああ、なんて独りよがりな絵だ。こういう絵は好きだな、と作者の名前を見ると、水島彩と書かれていた。
水島彩? あの二十四色の?
期せずして彩の絵を「好きだ」と感じてしまった自分に動揺して、私は足早に展示場を後にした。
*
がたりと椅子を引く音で現実に引き戻される。彩が椅子の上に立って、足元の絵を見下ろしていた。ただでさえ身長が高いのに、椅子の上に立つと天井に空を描けそうだ。
どんどんどんと太鼓が夕暮れ空に響く。ふぁいとーと応援団の歓声が聞こえる。彩は動かない。夕日を受けて陰影を濃くする教室。その中心で屹立する姿は、すらりと伸びる手足も相まってひとつの美術品のようだった。
今回の絵画のラフは彩が作成した。もちろんパネル係に事前にアンケートを取ってのことだが、そもそもアンケートの回答はふざけたものも多く参考になるものは微々たるもの。私も彩に任せたかったので、結局彩がラフをひいて了承を得るという形になった。
だからこれは実質的に彩の作品だ。
私が口を挟んだら、筆がよどむ。
彩自身がパネル絵に力を入れているのは見て取れる。すでに完成している昼の部の絵のわずかな色合いを何度も修正しているのを知っている。困った顔をしながらも、ラフの修正にはてこでも動かない姿勢をとっている。
この教室はきっとこの校舎のどこよりも静かで、けれどいちばん熱を帯びた場所だ。
彩が塗料缶にハケを突っ込んだところで、私はそっとその場を離れた。全体の進捗報告は明日でいい。声をかければいつもの困り眉で振り向いてくれることはわかっていたが、今はあの熱を冷ましたくない。
誰でもいいから代わりがほしくて彩の名前を出した、というのは嘘だ。誰でもいいは語弊がある。
彩がやればいい。こういう場での彩の絵が見てみたい。
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