第2話
翌日、作業開始前に櫓係の
「櫓もほぼほぼ出来上がっとるんやけど、設計図通りパネルがきちんと吊り下げられるんか不安やけん」
要は櫓にパネル絵を吊り下げられるか予行演習をしておきたいということらしい。
私はパネル係の後輩数人に指示して、すでに完成している夕方の部のパネル絵を運ばせた。「ついでに写真も撮ってきて」と伝えておく。広報係からパネル絵の進捗をチラ見せしてほしいと催促されていたことを思い出したのだ。
夕方の部の絵は、彩がいちばん気合を入れて描いていた絵だ。校内新聞でもさぞ映えるだろう。
平たちを見送ってからいつもの集会教室にいくと、すでに作業前の長によるあいさつは終わった後で、みなそれぞれの作業場に散らばっているようだった。
「もう大詰めやけん、明日中の完成を見越して頑張りましょうやって。時間余ったらほかの係を手伝ってください言うてましたよ」
鈴谷がハチマキで髪を結びながらそう言った。その辺は数日前に話したときにすり合わせしていた部分だ。やる気のない生徒を拘束し続けてもしょうがないので、色塗りが終われば一区切りと告げれば効率も上がるだろうという算段だった。
それよりも私が気になったのは。
「ごめん、その絵の話、彩にするん忘れとったわ」
鈴谷は足元の虎の絵に目を落としてから、ふふんと鼻を鳴らしてみせた。
「もう許可もらえましたよ、彩先輩に。『周りの絵とトーンが崩れんようにね』ってアドバイスもらえました」
「許可をもらえた?」
「彩先輩も話せばわかるんですね~」とハケをくるくる回す鈴谷を置いて、私は彩のいる教室へと向かった。
「彩!」
相変わらず椅子で屹立している背中に、今日は迷わず呼びかける。彩は肩をびくつかせて目を丸くして振り向いた。
「なんや
「銀虎のやつ、あれでええん? ラフと違うやん」
ああ、と少し目を俯かせてから息を抜くように笑みを浮かべる。
「ええんよ。ちょいびっくりしたけど、そんな悪くないなって思うて」
「鈴谷が強う言うてきて拒否できんかったんやったら、ウチが代わりに言うで?」
彩はハケを顔の前に持ってきて首をぶんぶんと横に振る。
「いや、ええって。そもそもこれはウチだけの絵やないし」
それはまったくもってその通りなのだが、なんとなく気に入らない。
「せやけどラフの段階でなんも言ってこんやつが本番で変えるんはなんか嫌やない? せやったら最初から案出しとけやって思わん?」
椅子から降りてきた彩の横に並び立つ。私も決して身長が低いわけではないのだが、目線の高さがちょうど彩の口元になる。リップクリームで潤いを帯びた唇が動く。
「いや、出来上がりみて思うたより悪うないなって。周りの絵と比べるとちょい浮いとったけん、少し色味たけ抑えてもらうようにお願いしたんよ」
ハケをもつ両手を顎もとで合わせた。両手の爪がきれいに整えられていた。気に入らない。
私の苛立ちを感じ取ったのか、彩が困ったように両手を振る。
「そんな顔せんでよ。相談もせんかったんはようなかったわ。ごめん」
「そんなんどうでもええよ。ただ……ただ彩の絵が塗り潰されていくんが嫌なだけ」
曖昧に微笑む彩から目を逸らす。
足元に描かれた青白い鹿が目に入った。天に向かって嘶いている。
「これももう完成やね」
彩は頷いた。
空に敷き詰められた雲の間を掻い潜って、太陽の光が差し込んできた。グラウンドからは太鼓の叩く音が聞こえる。誰かの掛け声に続いて、どどどん、どどどんと乾いた音が空気を震わせる。
「……ありがとうね」
太鼓の音にかき消されそうな声で、彩が呟いた。
「え?」
「ウチをパネル長に推薦してくれたこと」
「ああ、いや、絵が上手い人がなった方がええと思ったけん。ただそれだけよ」
なぜか言い訳がましくなってしまう。
「ウチ、今でも覚えとるよ、薄墨さんの絵」
「……いつの? 絵なんて人前では久しく描いとらんよ」
「小学生の写生大会の時の絵。覚えとる?」
少し考えてから首を横に振った。写生大会のことは覚えているが、肝心の絵の内容を覚えていなかった。彩の絵も、自分が描いた絵も、思い出せない。
彩は記憶を紡ぐように、両手の親指をそわそわと動かす。
「あんとき、ウチは遊具を描いたんよ。ほら、
ああ、と声が漏れた。靄のかかっていた記憶がぱあっと華やぐ。そうだ。あの年は湯ノ石公園の遊具の塗装が新しくなったときだった。長年の雨風に剥がされた塗料を塗り直し、パステルな色合いに生まれ変わった年だった。懐かしい。また色がくすんできたから、そろそろもう一度再塗装される時期なのではないか?
「みんなそうよ。みんな遊具が描きたい、遊具が描きたいって夢中やったけん、滑り台の前なんか陣取り合戦みたいになっとったんよ」
「そうやったっけ?」
「薄墨さんは覚えとらんかもね。全然違う場所おったもん」
「……よう覚えとるね」
「びっくりしたもん。薄墨さん、公園の広場の真ん中から、ウチらのこと描いとったんよ」
「ウチらって?」
「小学生が、遊具を描いとる姿。それを、遠くから」
目を瞑って思い出そうとするも、こちらはピンと来なかった。そんな絵、描いたっけ?
「しかもその位置からやったら遊具は見えんのよ。『木に隠れとるから見えません』言うて、遊具は描かんかったんよ」
「せやけん、ウチらが何を被写体にしとるんかはわからんようになっとってね。『なんでそんな絵を描くん?』ってウチが聞いたら、『色が派手なん嫌い』って」
思い出せない。絵の内容は思い出せないが、その時の心情はなんとなく覚えている。
「…ウチ、その後に『色の数が絵の価値やない』みたいなこと言わんかった?」
「そうそう! ウチはそん時、いかに色を多く使うかしか考えてなかったけん、その言葉にめっちゃびっくりして」
目を輝かせる彩に申し訳ない気持ちになる。
「……それ多分、彩に対抗したかっただけよ。高尚な考えあってのことやないけん」
「薄墨さんの絵で目立つ色は、生徒が被っとった帽子の赤色と、公園樹の黄緑色だけ。ほかは沈んだ色合いのもんしかなくって、やけどやからこそ赤と黄緑がすっごい鮮やかに見えたんよ」
彩が早口に言葉を連ねる。そこまで言われても絵は思い出せない。破いて捨ててしまったので、見返すことも少なかったのだろう。そんなに褒めてくれるなら、残しておけばよかった。
「それから絵を描くんが大好きになったんよ。色を抜くことでまとまることもあるんやって。見た目の派手さよりも全体のバランスが大切やってわかってから、色塗りが楽しみになったけん」
文化祭で見た雨の絵を思い出す。あれも色を極力落として、水溜りに映る傘の色をアクセントにした絵だった。
「やけん、薄墨さんがウチをパネル長に指名してくれたんが嬉しくって……なんでウチをパネル長に指名してくれたん?」
「そりゃクラスで絵がいちばん上手いと思ったけん。ウチなんて、最近ろくに絵描いとらんかったし……」
なんだか居心地が悪い。なんとはなしに自分の指を見る。ネイルケアのされた爪を見てなおのこと恥ずかしくなった。
「……まあ、ウチも楽しめたよ。絵描くの久々やったけん」
彩が窓枠にもたれかかる。少し開けられた窓の隙間から風が入り込み、私たちの髪を揺らす。
「絵はもう描いとらんの? 趣味で」
「描いとらんなぁ。画材をどこにやったんかわからんレベル」
明日には何を話していたのかも忘れてしまいそうな、他愛もない話をした。そういえばここまで話題といえばパネル絵の制作のことばかりで、友人とするような雑談はしていなかったかもしれない。
体育祭が終わったら、彩のお気に入りのカフェで乾杯でもしようと約束したところで、この日はお開きとなった。
「夕方から降る予報やったけど、帰るまでは大丈夫そうやね」
彩の言葉に窓の外を見る。先ほどまで微かに差し込んでいた光も途絶え、沈んだ灰色が空を埋め尽くしていた。
*
「今から描き直せんか?」
田島の言葉を、夏樹が即座に否定する。
「いや、無理やろ。時間的に絶対間に合わんって」
「せやったらどうするんぞ? あのぐちゃぐちゃな絵そのまま貼り付けるんか?」
「ウチに当たんなや。運営に事情説明して、二枚で採点してもらうしかないわ」
「まだ見てないんやけど、そんなにひどいん? ちょっと手直しでどうにかできんの––」
「できん言うとるやろうが! なんなら持ってきたろか? ここに」
苛立ちを隠せない幹部会議のなかで、彩は虚空を見つめていた。焦りを通り越して頭の中が真っ白なのだろう。白いキャンパスには下書きが必要なのに、走らせるべき筆が見つからない。そんな状況だ。
私のせいだ。唇を強く噛む。私が不用意に絵を貸し出したから。
昨日、櫓係に貸し出した夕方の部のパネルは、想定通りうまくお立ち台に吊り下げることができたらしい。広報部が写真撮影した後、できれば青空の下で撮りたいから明日もう一度撮影できないか、と提案されたようだ。パネル絵を運んだ後輩はそれを了承し、絵を櫓係に預けてその場を去った。
預かった櫓係はどうしたかというと、一度は絵を降ろそうとしたのだが、絵を下ろして明日もう一度吊り下げることを億劫に思い、雨風を避けるためにパネル絵にブルーシートをかけて放置した。
そもそもブルーシートをかけたところで雨風を100%防げるわけがないのでこの時点で間違っているのだが、そのブルーシートがしっかりと櫓に結びつけられていれば、シートの隙間から多少雨が入り込んでも絵の端が濡れる程度で済んだかもしれない。
上部の結びが甘かったブルーシートは夜中の間に落下し、パネル絵は一晩中風雨に晒され続けた。
今日の朝に大道具係の長が見つけた時には、含んだ雨の重みでパネル絵は留め具から剥がれ落ちていた。紙は波打ち、撥水対策も虚しく絵の具が涙のように滴り落ちていた。
「つうか、平はなんて言いよるん?」
「『俺の責任や』って。手伝えることがあったら言ってくれと」
「手伝えることって……」
「ごめん、ウチがニス塗前の絵を不用意に貸し出したせいで」
「彩のせいじゃないけん。こんなんなるとは思わんやろ」
「戦犯探してもしゃあないわ。これからどうするん?」
七組の今山さんの言葉で、その場に沈黙が訪れる。
体育祭は明明後日。一枚のパネル絵を書き上げるのに十日かかっている。一度描いた絵であることを考慮しても一週間は必要だ。とてもじゃないが間に合わない。
「パネル長」
田島の言葉にびくりと肩を震わせ、それを誤魔化すように二の腕を抱いた。
「パネル長の意見を聞きたいわ。水島さんの判断なら誰にも文句言わせんけん」
「……えと」
彩が声を絞り出す。コチ、コチ、コチ。誰も急かしている訳ではないのに、教室に響く時計の音がやけにうるさい。
「……ウチは––」
「失礼します」
教室の後ろ側の扉がガラリと開いた。二人の生徒が入ってくる。
「広報長の阿澄です。この度は本当に申し訳ございませんでした」
広報係の
「やめてやアスミン。広報は悪うないって」
「いや、ウチがついとけばこんなことには––」
「ってかなんで櫓係が来んのぞ。まず平と櫓係の長が来いや。××すぞ」
「田島くん、落ち着いてや」
横槍が入ったせいでまた議論が巻き戻った。さっきから一歩も前に進めていない。彩も発しかけた言葉を飲み込めず、吐き出せないままオロオロと視線を泳がせていた。
「阿澄さん」
埒が明かないので阿澄さんに話しかけた。
「今、『青鹿』全体がどのくらい進行しとるかわかる? 手伝いに出せる人がどのくらいおるか」
「大道具と小道具はほぼ完成しとる。……あと衣装係も暇しとったと思う」
阿澄さんの回答をきっかけに、次々と意見が放出される。
「応援団の奴らも暇やろ。アイツら普段無駄に走り回っとるだけや」
「あとは櫓や。アイツらは無理矢理でも手伝わせろ」
「広報部も手伝えるけん……それで足りる?」
「待て待て待て。結局今から作り直す方向で行くんか?」
「いや、それでも厳しいわ。ペンキ乾かす時間も必要なのに––」
「……『銀虎』はどうなん?」
議論が止まる。
皆、私の次の発言を待っていた。
しまった、と思いつつも言葉をつなげる。
「『銀虎』とか『紅鯨』とか『黒龍』とか…。ほかのグループはどうなんやろうか?」
周りの様子を伺うように、皆が顔を見合わせる。
「……敵チームに力を借りるってこと?」
うん、と頷きかけて首を横に振る。
「いや、ちょっと思いついただけで––」
「ありやな」
田島が眉間を指で押さえる。
「ちゅうかそれしかないわ。二枚で採点してもらうよりよっぽどマシ……ってかええ案やろ」
「……いやでも––」
「アスミン、どうなんやろうか」
「……『黒龍』のパネル係は遅れとったけど、ほかは少し余裕あると思う。なんならほかグループのパネル以外の係まで加えたら暇な人多いやろうし……」
「あとは運営が許すかやな。まあいけるやろ」
「スローガンに『一致団結』が含まれとるけん、ライバルとの協力ってのも先生受けはええんとちゃう?」
「確か『紅鯨』がでっかい通風機用意しとったはずやけん、それも借りたらなんとかなるかも」
「……」
「どうする? とりあえず先生に報告せんとあかんけん、そっちは長に行ってもらうしかないな」
「運営側の許可取れたらそれぞれの総長に聞かんとな。俺『黒龍』の芹沢とは仲ええけん話つけてくるわ」
「『紅鯨』なら話つけられると思うけど」
「半田経由か。まだ続いとったんやな」
「なんやそのニヤつきは……『銀虎』はどうするん」
「ちょい待ってや!」
私の叫びに、また議論が止まる。
「……彩の意見を聞いてないやろ」
彩はじっと足元を見つめたまま固まっていた。先ほどまでの焦りの雰囲気は消え失せ、代わりに底知れない冷たさを纏っているように思えた。
「……パネル長」
田島が真っ直ぐに彩を見つめる。
時計の秒針が五回分移動して、彩が顔を上げた。
「––厳しいけど」
彩は微笑んだ。
「みんなで描き切れば間に合うはず。各所に話をつけんといかんけん、みんなよろしく頼みます」
「シャア!」と田島が自分を鼓舞した。夏樹がパチンと両頬を叩く。他のものも顔を少し綻ばせて、頷き合った。
そこからは急ぎ足で、細かな内容は覚えていない。とにかく時間との勝負だったので、広報部含め担当を割り振って、同時並行で各所に伝達していった。先生の許可は即時許可とはならなかったが、数時間後にはゴーサインが出た。他のグループの長は皆即決で協力を約束してくれた。
その日は校舎中を駆け回り、スマホで連絡を取り合って一日が終わった。
彩とはスマホで連絡を取っただけで会わないまま解散となってしまった。
下校する直前、彩とスマホ越しに会話をした。ひどく、曖昧な疑問を投げかけた。
「よかったんかな」
卑怯者。こう聞かれて、一体どう答えろと言うのだろう。
予想通りの答えが返ってきた。
「もちろんよ。絵が完成するまで気は抜けんけど、頑張ろうね」
スマホ越しに聞こえてきた声は明るく、しかし画面に表示された「水島彩」の名前からは表情は伺えなかった。
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