第2話 キリスト教とはなにを信じているの?

私達が信じているものは、果たして何なのか。


それをひとことで言うなら、「神様」ということになる。


では、その「神様」とはなにか?


「天におられるわたしたちの父」と、「子なるキリスト」と「聖霊」が三位一体となって「神様」を構成している、といわれても正直かなりわかりづらい。


イエス・キリストというひと(正確には神の子)が紀元前4年か6年か8年かまあそのくらいに生まれた。母親はマリアというひとで、彼女は性的なことをしていないのに御子(みこ。イエス・キリストのこと)を授かった。これを処女懐胎(しょじょかいたい)という。人間はふつう、性的なことをしないとこどもを産めないが、マリア様は特別なひとで、信仰が深かったから、このような不思議なことが起きた。これも神様(天におられるわたしたちの父)が起こした奇跡だ。新約聖書の何処かには、「神様はどんな奇跡でも起こせるのだから、信仰を大切にしなさい」といったことが書いてあるらしい。たしかルカによる福音書の6章くらいだったと思うが、うろ覚えである。


彼は30歳くらいまで大工をしていたが、福音(ふくいん。神様が人間に伝える、喜ばしい知らせのこと)を伝えるために、宣教(せんきょう。宗教を世の中に広めるために頑張ること)をはじめた。そのときには12人の仲間(使徒。しと)がいた。しかし、そのうちのひとりにたった銀貨30枚の値段(いくらかはわかっていないが、かなり安い値段)の誘惑により裏切られ、当時ローマで一番偉かったポンティオ・ピラトという人間の策略によって、イエス様は殺されてしまう。そのときに使われたのが十字架だが、十字架は異教徒が受けることになる刑罰である。イエス様はユダヤ人として生まれ、割礼(かつれい)というユダヤ人としての通過儀礼を受けていた)に対する刑罰だった。あまりにも残虐なので、ローマ人には石打ちなどの別の刑罰があった。


イエス様が死んだだけであったら、キリスト教は生まれなかったのではないかと友人のクリスチャンは言っている。ここで終わりではなかったというところに、キリスト教の源泉がある。3日後に死者のうちから復活して、12人の仲間たちの前にふたたび現れる。これを「イエス様の復活」として私達は大切にしている。


なお、キリスト教にとって大切な行事はいくつかあるが、たとえばクリスマスはイエス様がマリア様のもとから生まれた(とされる。正確には異教徒のまつりなどと混同されこの日になった)日のことだ。イースター(日本語で言うなら復活祭)はイエス様のご復活を祝う日となっている。復活徹夜祭という行事が復活祭のときにはある(厳密には徹夜ではない、2時間半程度のミサ。ふつうのミサは1時間程度)が、そこで希望者は洗礼を受ける。

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