第6話 沈黙のジレンマ
義母が痛みを訴えていた日、居室の空気は重かった。点滴の針が刺さった脚は腫れ上がり、義母は顔をしかめていた。
私たち家族は、延命治療を望まないという意思を何度も伝えていたし書類に署名捺印もしていた。義母自身も、静かな最期を望んでいた。
それでも、院長は医療行為を続けた。
「死にそうな患者に、医療をするなと言うのか!?」
その言葉は、私たちの願いを突き放した。
その場にいた明石施設長と中島介護士は、義母の苦しみを誰よりも理解していた。
中島さんは、義母の脚をそっと撫でながら、静かに「痛いですよね」と声をかけた。明石施設長は、私たちの目を見て、何も言わずに頷いた。
彼らは、義母の痛みに心を寄せていた。
けれど、院長には何も言えなかった。
それが、彼らの立場だった。
施設は、院長が経営する個人内科病院の傘下にある。医師であり理事長でもある院長の判断は、現場の職員にとって絶対だった。反論すれば、職を失うかもしれない。施設の運営に支障が出るかもしれない。
その沈黙は、彼らの優しさの裏返しだった。
義母の痛みを見て、心を痛めながらも、声を上げられない。
その葛藤が、彼らの表情に滲んでいた。
私たちは、彼らを責めることができなかった。
むしろ、可哀そうだと思った。
義母の苦しみを理解しながらも、何もできない——その無力さは、私たち家族の苦しみと重なっていた。
弊社の顧問弁護士に相談し、その旨を院長に伝えてようやく点滴は止まった。
義母の顔が、少しだけ安らいだように見えた。
その時、明石施設長が小さく「よかったですね」と言った。
その声には、安堵と悔しさが混じっていた。
介護の現場には、医療の壁がある。
命に寄り添いたいという思いが、制度や権力の前で押し潰されることがある。
それでも、現場の人々は、沈黙の中で、命に向き合っている。
その姿は、私たちにとって、何よりも尊いものだった。
つづく
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