20-2

 * * *


 結論から言うと、高下はサイン会に無事当選することができた。

 時は二月の初め、土曜日。都内某所。

 サイン会の会場である無機質な白いホール。

 その一階、一番奥の広い部屋の前にCDやグッズを売る公式運営の区画があった。サイン会に当選しなくてもそれを買うために来ているファンも多く、混雑している。

 そこに、高下は一時間前からいた。

 活気のある場所に不慣れな高下はおっかなびっくりといった様子で会場の中を見渡したり、何をするわけでもなく立ち尽くしたりして過ごしていた。

(この催し物に、中島くんは参加してたりするのだろうか……)

 ホールに入った際に向太郎を探してみたが、あまりの人の多さに見つけられなかった。もしかして、ここに来ていないかもしれない、と考える。

 向太郎から、グルメレビューサイトのURLと共に「バレンタインデーに、レストランで自分と一度会って欲しい」という連絡が入っていたことを同時に思い出した。

 現在も絶交中で今後も徹底的に突き放して関係をフェードアウトさせるつもりだったが、謝罪したいという向太郎の真摯なコメントに高下の良心が痛み、結局返事をしてしまった。

『君に酷い態度をとってごめん。ただ、直接会うのにはまだ決心がつかない。必ずバレンタインデーの三日前までには返事をするから少し待って欲しい』

 内容はそれだけだ。ちなみに、いまだに決心はついておらずこれ以上はどう返すべきか迷っている。

「サイン会当選者の方はこちらに並んでください! 身分証確認します!」

 男性スタッフたちがグッズショップの近くの三卓の受付テーブルの前で、大きな声を出してファンたちに呼びかける。

 そろそろサイン会が始まるという合図だ。

 ファンたちが一斉にそちらに集まる。

 高下もテーブル前へ行き、そこに座るスタッフに運転免許証を見せ、ファン同士の転売やなりすまし対策のための身分確認を行う。その後サイン会を行う大きな部屋に入った。

 部屋の奥には中身が見えない、灰色のパーテーションで正方形に作られた小さい五つの区画がある。おそらくあの中にメンバーがいるのだろう、と高下は推測した。

 パーテーションの前にメンバーごとの当選者が並ぶために作られたチェーンポールの列がそれぞれの区画前まで置いてあり、「水瓶おとめサイン会当選者列」という表示の紙が吊られたスタンドの前に並ぶ。

(予想していたが皆、俺以外は女性だな……)

 おとめのサイン会当選者の列に並びながら、辺りを少し観察してみた。

 到底自分ではできない、おそらくサイン会前に美容院でヘアメイクをやってもらったような複雑な編み込みのあるハーフアップに、白や淡い色を基調としたロングワンピースなど清楚なファッションに身を包んだ女性ファンや、黒髪や奇抜なカラーの髪を緩く巻いたツインテールに黒とピンクのフリルのついたトップス、膝上のスカートのコーディネートという所謂「地雷系」ファッションの女性ファン──こういったファンがほとんどだ。

 高下以外の男性ファンは彼以外に前方に位置する男性と、列の数人後ろにいる男性しか確認できなかった。

 華やかな女性ファンに囲まれている一方で、高下は身だしなみに気を付けて来たといえ、水色のワイシャツに紺色のニットベストと暗めのグレーのテーパードパンツというシンプルなファッションである。身長一七七センチというスタイルも相まって、客観的に見るとさながら「うさぎの群れに間違って放り込まれたオオカミ」のようだ。

 周りから浮いているのではないかと内心はチワワのように震え、少々不安に感じた。

 気を紛らわせるためにおとめに会って話す時に伝えたいことをメモした手帳のページを開き、復習する。

 このように緊張はしていたが、苦手だったはずの「人混み」であるこの空間には不思議と嫌悪感がなかった。

 きっと推しのおとめに会いたいという気持ちと、常時バッグや懐に入れて持ち歩いている向太郎からプレゼントされた黒いうさぎのトレカケースが勇気をくれたのだろうか、と高下は心地よい高揚感を持つ。

 そうやって、ゆっくり進む列を歩んで約三十分後。とうとう、灰色のパーテーションの前まで来てしまった。

 およそ三分前にパーテーションの中に入った、高下の前の女性ファンが出口から出て来た。手にはサインされたCDを持っている。

 同じくサイン会に来ていた友人だろうか。先に待っていたもう一人の女性に駆け寄り顔を赤らめながら手で覆って、「おとめくん、マジでメロい! ヤバすぎた!」と大声で興奮している。

(そ、そんなに……ファンサービスが素晴らしいのか!?)

 女性ファンを見て、自分のことのように考える。心臓がよりドクドクと重く高鳴り、周囲にまで聞こえてしまいそうだ。

「次の方、どうぞー」

 中にいた男性スタッフが出てきて、高下に呼びかける。その声に従って、パーテーションの中に恐る恐る入った。

「し、失礼します……」

 小さく会釈をして入る高下。パーテーションの中を見回す。

 先程の男性スタッフと、左右には運営のジャンパーを着た、少し厳つい男性が2人いた。おそらく暴漢対策のためのボディーガードのような立場のスタッフだろう。

 そして、その区画の真ん中にいた人物──。

 バレンタインデーが近いからか、チョコレート色の制服風ブレザーに水色のネクタイ、中にはアイボリーのニットベストを着用した女性が手を振って座っている。

 マロンカラーのショートカット、きりりとした中性的で涼しげな瞳、控えめだが艶のあるタッチのリップで彩った形の良い唇、相手を和ませるために浮かべる柔らかい笑顔。

 この女性こそ──高下が会って話したくて焦がれた推しアイドル・水瓶おとめだ。

(な……なんだ!? すごい、なんかすごいぞ! え!? 肌が白く発光している……!? どういう人体構造が!? 化粧品は良いものを使っているだろうし芸能人だから美容点滴、皮膚科医の指導の遵守、ビタミンCなどのサプリ飲用、食事制限などはしているだろうけど……それだけではこうはならない! どういうことだ、これは!?)

 高下も商品企画職という職業柄、化粧品の発表会で芸能人と二度ほど仕事をしたことがあるがこのような雷に打たれたかのような感動を抱くのは初めてだった。そのせいで普段よりも幾分か、心の語彙力の低下が見られる。SNSでの「尊い」、「しゅき」、「メロい」、「エモい」といった若者間で流行っている感嘆語を話すファンたちの言葉には眉を顰めていたが、そのようなことを口にする気持ちが理解できた気がする。

(め、女神だ……っ! 女神がもし存在するなら、おそらくおとめくんのような人間だ!)

 間近で見る、ライブや映像では分からなかった「生まれながらのスター」が持つ光り輝く覇者のオーラに圧倒されて棒立ちのまま固まった。

 おとめが微動だにしない高下を見て、ふふっと笑い「こちらにどうぞ」と机を隔てて対面にある椅子に座るよう、促す。高下は推しのおとめに滑稽な姿を晒してしまい、恥ずかしくなりながら指示どおり座った。

「男性で、私のファンなんて珍しいですね」

「……そ、そうですか?」

「はい。去年やった夏のアリーナの時にも同じことを思いました。あの時もなんか珍しいなーってトロッコ乗りながら思って、タオルをその人に投げたんですよね」

「それ……俺です……。今もタオル、大切に保管してます……」

「えー! そうだったんですね! あの時から半年以上経ってるのに、サイン会にまで来てくれるなんて本当に嬉しいです」

「い、いえ……恐縮です」

 おとめは、サラサラと黒いペンでCDにサインする。緊張するファンに慣れているのか、おとめから話しかけて高下を解そうとトークをしてきた。

(営業してた頃は百戦錬磨だと言われてた俺が……全然喋れない! な、情けなさすぎる……)

 対して高下は、職場での冷静な姿は全く見る影もなかった。

 だが、このようにいつまでも時間を無駄にしてはいられない。ネット上にある前回のサイン会のレポートに、メンバーとファンが会話できる制限時間は一分ほどだと書いてあった。

(今こそ、予めメモしたことを伝えるべきではないか?)

 自分の番まで必死に読み込んでいた、伝えたいことを書いた手帳のことを思い出す。

「あ、あの……! おとめくん!」

「はい?」

「あ……えっと……」

 思い切って相手を呼んでみたが──言葉が続かない。

 極度の緊張によって、伝えるべきことを全て忘れてしまったのだ。

(ど、どうしよう……)

 狼狽えて視線を逸らしていると、サインを書き終わったおとめが高下を優しく見つめた。

「緊張しちゃったんですよね? なんでもいいです。今、あなたが私に伝えたいことをそのまま言ってみてください」

 その言葉と微笑みに少しだけ高下の気持ちが楽になる。

 少し間を置いて、決意しておとめの顔を見据える。辿々しくてもいいから、ありのままを伝えようと思った。

「……俺、仕事でずっと気を張ってて……。誰にも信頼されないし、俺も誰も信用しないまま過ごしてました。本当は一人で、寂しくて……でも素直に、なれなくて」

 おとめはそのまま黙っている。

「そんな時におとめくんがデビューした時のインタビュー動画を偶然見かけて……この人みたいに俺も本当の自分を見せられるようになりたいな、って思ったのがファンになったきっかけです。そのおかげで、大切に思う人もできました……。その人が、一緒におとめくんみたいになれるように頑張ろうって言って、側にいてくれたのに……」

 高下は向太郎のことを思い浮かべた。

「……俺は、突き放しました。あなたみたいな人になれるのを目標にしてるのにまだまだ全然、未熟ですよね。もういい大人なのに……」

 叶わないと考え、思い詰めた向太郎への恋から彼に似た人間に一夜限りで抱かれたこととそれによる絶交状態の件をぼかしながら、おとめにこぼしていた。

(せっかくのサイン会で何を言っているんだ、俺は。ここは懺悔室じゃないんだぞ。ほら、おとめくんを困らせるだけじゃないか……)

 感謝を伝えるつもりが、気付くと自分よりも十歳下の、何の接点もない芸能人のおとめに第三者には全く意味が分からない心の葛藤や私情を思わず話してしまい、言葉の最後は尻すぼみになってしまった。

 そうしていると、「時間です」と両側に控えていた屈強な運営スタッフの一人に肩を叩かれる。

(全然、何も伝えられなかった……)

 高下は残念さを滲ませながら、椅子から立つ際に「すみませんでした、応援してます」とだけ小さく伝えてサインされたCDとバッグ、ダッフルコートを右手で抱える。

 これから先の人生で、今後二度とないようなチャンスを棒に振ってしまった──悔しい気持ちとおとめにファンの愚痴を聞かせてしまった申し訳なさで出口に向かおうとすると。

「ちょっと待ってください!」

 高下は振り返る。

 おとめが真剣な顔をして、引き留めて叫んだのだ。

「あ、十秒だけ……時間ください。いいですよね、スタッフさん」

 スタッフたちが互いを見合わせて、渋々頷く。

 おとめは椅子から立ち上がったまま、高下に話す。

「どんな事情で悩んでるのかは分かりません。でもあなた、初対面の私にこんなに素直に話せるじゃないですか。それなら……大切な人にも同じこと、きっとできますよ」

 おとめは拳を作り、高下に向ける。すると彼女は「あなたも同じポーズ、してください」と要求する。

 高下は、控えめにおとめへ左手の拳を向けた。

「……私に憧れてるなら。腹、括ってください。チャンスがあるなら無駄にしないで。ちゃんと大事な人に、本音を伝えてください。何もしないまま、後悔するのは勿体ないですよ」

 おとめは「私との、約束です」と挑戦的ににやり、と口角を上げる。凛とした容姿によるその表情は、非常にさまになった。

 ──その瞬間。高下の中で、はじけた。

「……っ! ありがとう、ございます!」

 高下は拳を下げて深く礼をして叫ぶ。そして、足早に出口から去った。


 バッグにサインが書かれたCDを丁寧に仕舞い込み、ダッフルコートを着てホールの外に出た高下は、バッグの外側の小ポケットからスマートフォンを取り出した。

 メッセージアプリを開く。

 会話の相手は、向太郎。

『バレンタインデー、会おう。俺も君に会いたい』

 一言、コメントを返した。

 幸運の女神には前髪しかない──古代ギリシアのことわざだ。

 言葉の意味は、「チャンスは訪れた時に掴まなければならない」。

 水瓶おとめという、女神アイドルからの「チャンスを無駄にするな」という助言。

 高下は、それを実行する時が来たのだ。

 


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