散らない。
とひわ
ある猛暑の日
けたたましい爆音と夜空を割らんばかりの光で両親の視線を奪う、その悪魔が花火という名前であることを覚えたのは齢三歳の時分だったと思う。
夏の夜は暑いので、周囲の人間の存在感は僅か数ヶ月前の「春」、その二倍程に強く感じる。だから外に出るのは嫌いだった。両親と三人で過ごす涼しいあの家は幼い自分にとって楽園、言い換えれば世界の全て。誰にも奪われるべきではない幼稚な平和はしかし、あの日他でもない愛する両親の手で取り上げられた。
──██、花火を見せてあげるよ。
母が笑った。
──きっと██も好きになるだろうね。
父はもっと笑った。あの日のボクが持っていた、今となっては誰も呼ばない懐かしい愛称を口にして。
ちっぽけなこの手を引いて蒸し暑い夜長に飛び出そうとする両親に、本当は泣いて縋りたかった。行かないでと。あの日の二人はボクを連れて行くのだと言いながらまるで心にボクはいないようで、言えない言葉と涙を堪えてただ歩くボクのことを、熱くて疲れているんだねなんて無慈悲な言葉で丸め込んだのだ。
祭りの屋台。お囃子がボクを嗤う声。猛暑に溺れるひとゴミを掻い潜るように歩いていた矢先。ボクの手を握っていた父が声をあげた。
──あぁ██、来るよ。
と。
何が?と、答えようとしたボクの声は父にも母にも届かなかった。何かの光が上がったのに続いて怒号のような爆烈が周囲の空気を跳ね飛ばし、一瞬にして広い祭りの会場、その夜空より低いところ全てを真空に変えた。
真空。無。ボクが必死に上げる声は、一つも両親に届かない世界がそこに訪れた。
──パパ、ママ。
──パパ、ママ。
両親は振り向かなかった。揃って上を向いていた。どんな顔をしているのか、何を思っているのか。両親よりもずっとずっと下の地面にほど近い場所から見上げるボクには伺い知る術も無く、それでもただ一つはっきりと、ボクの存在は今両親の中には無いのだと悟っていた。
怖かった。
悲しかった。
しかし涙は出なかった。今は泣いても、両親はボクの涙を見てくれないのだと分かっていた。涙を流すことすらもが今は怖い、と。
金色の柳。赤い牡丹。緑の噴水。例えようもない煌びやかでアイロニカルな色の集合体が墨で濡れた宵空に咲いては散り、裂いては散り、余韻の煙で穢すくせに素知らぬ顔でまた散った。
虚空の地獄が体感には一時間ほども続いていた。当然、今ならその時間が僅か一〇分にも満たないほんとひと時だったことも分かっているが、それでもあの日のボクの人生というものに、そのほんのひと時が大きな空洞を空けたことは間違いない。全てが終わった時、両親はこう言った。
──綺麗だったね。
──きっと忘れないね。
世界は、花火とは一瞬光って儚く散る命だと言うが、そうは思わない。花火とはこの宇宙でただ一つ永遠の命を持つ「終わらないもの」だと、その日ボクは思った。そして今も変わらずそう思う。あの日見た花火は散った後もボクの両親の記憶に巣食っていたから。夏の爆音と雷鳴の如き光は、おぞましい怪物だと、思う。
だからなのか。あの花火は嵐の日の雷によく似ているからなのか。今でも夏の熱帯夜などには決まってあの一時間の地獄がボクの夢を犯す。
──パパ、ママ。
と。呼んでもやはり届かない。夜空はずっと遠くに居る。
散らない。 とひわ @Umekobo
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